第二十話 大好きな君と(1)
クリスマスイブの午後。甘く焦げた砂糖の匂いが鼻先をくすぐり、スピーカーから流れるジャズアレンジのジングルベルが、身体の奥で妙に跳ねる。公園の大きな池を囲むようにして並んだキッチンカーや出店の数々、湯気を立てるホットチョコレート、笑い声、光。楽しげな人々のざわめきが、わたしの鼓動を無理やり早めていく。まるでこの空気そのものに、呑まれそうだった。
――やっぱり無理、かもしれない。
公会堂の控室に入ると、さっきまでの賑やかな喧騒が、扉一枚の向こうで別の季節みたいに薄れていく。端っこで冷たいパイプ椅子に座りながら、わたしはトランペットを握りしめていた。手が、かすかに震えている。指先まで血の気が引いて、ぴりぴりと痛いほどに冷たかった。あまりにも緊張していて、うまく息ができない。心臓の音ばかりが、喉の奥を叩いていた。
「ミナ、緊張しすぎだよ。がっちがちじゃん……」
カナデの声が、すぐ上から降ってくる。立ったままわたしを見下ろすその姿は――ちょっと呆れつつも優しくて、わたしの胸が固くなる。
「いつも通りで大丈夫。ミナ、今日までたくさん練習してきたでしょ」
その言葉に、わたしは小さく頷く。音を外した日も、泣きそうになった日も、いつだってカナデは、わたしの隣にいてくれた。そのカナデに言われる言葉には、何よりも説得力がある。
だけどわたしはあがり症で、人前に立つことが怖い。こんなにもたくさんの人の前で楽器を持って立つなんて、生まれて初めてだった。
「多少間違えたって、誰も気づかないよ。だからさ、ミナ。先生も言ってたけど、まずは楽しんで演奏しよう」
カナデの声はどこまでも静かで、穏やかだった。困ったように笑いながらわたしの片手を取り、両手で包みながらさすってくれる。
「……冷た。ほんと、今にも死んじゃいそうじゃん」
カナデは冗談めかして笑った後、わたしの手をしっかりと握り込んだ。その瞳が一瞬だけ伏せられて、それからゆっくりと持ち上げられる。見つめ返した瞬間、わたしは息を呑んだ。
――真っ直ぐな瞳。迷いなんて、どこにもない。
「……大丈夫。ミナならできるよ」
カナデの声が、すとんと胸の内に落ちていく。カナデの黒い瞳に射抜かれて、わたしの心臓がまたひとつ音を立てる。握られた手からじわじわとあたたかさが広がって、肩の力が少し抜けた。さっきまで身体の芯まで冷たかったのに、今は指の先まで、ちゃんと血が通っている。
カナデにわたしを、見ていてほしい――ちゃんとわたしの音を、届けたい。そう思ったとき、ふいにふわりと頭に重みがかかった。驚いて振り向くと、ツリーが乗ったカチューシャを着けたほのかが、にっこりと笑っていた。
「ふふっ。美奈ちゃんには、鹿? のカチューシャをあげるね。似合ってるよ! 奏は……そうだなあ……。じゃあ美奈ちゃんとセットで、このサンタ帽ね」
ほのかは手に持った紙袋をがさがさと漁り、赤い帽子を取り出してカナデに押しつけた。カナデは「ええ?」と顔をしかめながら、帽子をひょいっとつまみ上げる。
「これ、着けなきゃダメなの? ていうか、鹿じゃなくてトナカイじゃないの」
「そっかそっか、確かにトナカイだ。コスプレは全員強制だから、奏も被ってくださーい」
カナデはしぶしぶ帽子を頭に乗せ、露骨に嫌そうな顔をする。それを見て、ほのかと顔を見合わせて、つい吹き出してしまった。なんだか全然、似合ってない。
「ちょっと、ふたりとも。そんなに笑うことないじゃん……!」
頬を染めたカナデが、むきになって帽子を勢いよく取った。声を出して笑っていたほのかは目尻に涙を溜め、「演奏中は着けておいてね~」と言いながらコスプレグッズの配布に戻っていく。わたしも乱れた呼吸を落ち着かせようとするけれど、思い出すたびに息が漏れそうだった。
「ミナ……笑いすぎだから……」
じっとりしたカナデの視線に、ますます笑いがこみあげる。肩が震えるほど笑ったあと、ふと気づいた。
――手が、もう震えていない。
身体が、ほんのり熱を取り戻している。視界もだいぶ、広がってきた。さっきまで胸を塞いでいた重苦しい不安が、いつの間にか少し、薄れていた。
ステージの椅子に腰を下ろすと、全身サンタ姿の先生が陽気に手を振りながら指揮台に立った。その瞬間、観客の子どもたちから歓声が上がって、会場の空気が少しだけ和らぐ。けれど、わたしの掌はまだしっとりと汗ばみ、楽器を持つ指先がかすかに震えていた。
だけど――わたしの隣には、不機嫌そうなサンタがいる。赤い帽子を押しつけられて、「納得いかない」とでも言いたげな表情を、隠すことなく浮かべている。それがなんだかおかしくて、頬の内側にふっと力が入った。
大丈夫。カナデがいる。そう思うだけで緊張の塊だった背中が、少しだけほどけていく。
わたしは、ちゃんと吹けるだろうか。観客席に目を向けると、小さな子どもからお年寄りまで、たくさんの人がこちらを見ていた。恐怖で、ぐっと喉元が締め付けられる。けれどその中に――笑顔もあった。小さく息を吸い込むと、指揮棒が高く振り上げられる。
音楽が、駆け出した。
最初の音が空気を震わせると同時に、世界が動き出す。音が、流れる。指が、勝手に走り出す。わたしの意思なんて関係ないみたいに、身体が音楽に引っ張られていく。譜面に書かれたあの音も、カナデが教えてくれたあのフレーズも、風のように駆け抜けていった。
あっ、きちんと音が出てる。間違えてない。止まってない。音が、前に進んでいる。頭の中では不安が渦巻いているのに、身体が勝手に、覚えてくれていた。楽譜はもう見ているだけで、音が浮かぶ。
気づけば目の前の光景が、少しぼやけていた。だけどその分、耳が澄んでいた。周りの音が、合わさって響いてくる。ほのか、高洲さん、柚希のトランペット。目の前に座っている、ホルン。最前列のフルート……そして、自分の音。音がひとつになる感覚。わたしの音が誰かの音と混ざって、響き合っていく。
その中に、聴き慣れた音がある。カナデのトランペット――その音と、わたしの音が重なっている。たった一瞬だけ、目が合った気がした。見えてないのに、わかる。音で、わかる。
――わたし、今、カナデと一緒に吹いているんだ。
その事実に、胸が熱くなる。世界が色づいて、音楽が、音楽じゃない何かに変わった気がした。それはたぶん、祈り。願い。それがなんだか、たまらなく、心を揺らした。
ちょっとだけ、楽しい。怖いくらいに必死なのに、なぜか心が弾んでいる。
譜面の端に書き込んだ、汚い走り書き。カナデが教えてくれた音符。先生に注意されたあのリズム。全部が重なって――今ここに、わたしの音がある。
夢中で吹いた。指がもつれそうになっても、止まらなかった。音楽は生きているみたいに、わたしたちを連れていく。置いていかれそうで、必死にしがみついて――それでも前へ、進んでいく。
最後の音が、空に溶けるように消えていった。その瞬間、世界がふっと静まり返る。
……終わった?
息を吐くのも忘れていた。身体が止まったまま、わたしはただ客席を見つめる。呆然とした視線の先で――誰かが、微笑んでいた。ぱち、ぱち、と。ひとつ、ふたつ、拍手が響く。それがだんだん広がって、やがて会場全体を包み込んだ。子どもも、大人も、お年寄りも、みんな笑っている。嬉しそうに、楽しそうに。
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「……ミナ!」
隣でカナデの声がして、はっと我に返る。慌てて立ち上がると、椅子がががたりと音を立てた。だけど胸の奥では、別の音が鳴っていた。
『自分の演奏で、誰かがこんなふうに喜んでくれるって、知らなかった』
以前、海辺でカナデが言っていた言葉が、ふいに頭をよぎる。そのときは想像もできなかった感覚が、今のわたしにはわかる気がした。
わたしはまだまだ初心者で、できることだって少ない。だけど、ほんの少しだけだけど、音楽を――もっと好きになれそうな気がした。




