第二十話 大好きな君と(1)
クリスマスイブの午後。コンサートの会場となる公園では、クリスマスマーケットが開催されていた。大きな池の周りにはたくさんの出店やキッチンカーが並んでいて、イブを楽しむ若者や家族連れで賑わっている。池に面した小さな公会堂の中で、わたしは楽器を持つ手の指先まで、すっかり冷たくなっていた。
「ミナったら、緊張し過ぎだよ。いつも通りで大丈夫」
隣でカナデが、いつもと変わらない微笑みを向ける。そう言われても、わたしは生まれつきのあがり症だ。こんなにたくさんの人の前に立つなんて、生まれて初めてかもしれない。
「多少間違えたって、誰も気付かないよ。だからさ、ミナ。先生も言ってたけど、まずは楽しんで演奏しよう」
カナデはそう言って、わたしの震える手をそっと取った。ひんやりした指先を包み込んで両手でさすり、「冷たすぎ」と苦笑する。カナデは俯き、わたしの手をぎゅっと握りしめた。そのまま何かを噛みしめるように頷いて、顔を上げる。わたしを覗き込む黒い瞳には、一切の迷いもなかった。
「……大丈夫。ミナならできるよ」
その言葉が、すとんと胸の内に落ちていく。カナデの黒い瞳に射抜かれて、わたしの心臓がまた一つ音を立てる。カナデにわたしを、見ていてほしい――ちゃんとわたしの音を、届けたい。そう思ったとき、ふいに頭にふわりと重みがかかった。驚いて振り向くと、ツリーが乗ったカチューシャを着けたほのかが、にっこりと笑っていた。
「ふふっ。美奈ちゃんには、鹿? のカチューシャをあげるね。似合ってるよ! 奏は……そうだなあ……じゃあ美奈ちゃんとセットで、このサンタ帽ね」
ほのかは手に持った紙袋をがさがさと漁り、赤い帽子を取り出してカナデに押し付けている。カナデは「ええ?」と顔をしかめていたけれど、仕方なく受け取った。
「これ、着けなきゃダメなの? ていうか、鹿じゃなくてトナカイじゃないの」
「そっかそっか、確かにトナカイだ。コスプレは全員強制だから、奏も被ってくださーい」
カナデはしぶしぶ帽子を頭に乗せ、露骨に嫌そうな顔をする。それを見て、つい、ほのかと顔を見合わせて笑ってしまった。なんだか全然似合ってない。
「ちょっと、二人とも。そんなに笑うことないでしょ……!」
頬を染めたカナデが、むきになって帽子を勢いよく取った。声を出して笑っていたほのかは目尻に涙を溜め、「演奏中は着けておいてね~」と言いながらコスプレグッズの配布に戻っていく。わたしも乱れた呼吸を落ち着かせようとしていたけれど、思い出すたびに笑いがこみ上げてきてしまう。
「ミナ……笑いすぎだから……」
カナデのじっとりとした視線を浴びつつ、肩を震わせる。笑いすぎたせいで、身体が熱い。気がつけば、あれほど震えていた手も、もう動揺していなかった。
全身サンタ姿の先生が指揮台に立ち、端から団員を眺め渡す。わたしの手は相変わらず湿っていたけれど、隣に不機嫌そうなサンタがいてくれるおかげで、緊張はだいぶ和らいでいた。むしろ頬が緩んでしまいそうで、慌てて背筋をしゃんと伸ばす。先生の後ろには、多くの観客がいた。小さな子どもからお年寄りまで、年齢層は様々だ。わたし、きちんと吹けるかな。小さく息を吸い込むと同時に、指揮棒が空に上がった。
音楽が、駆け出した。指の動きに精一杯で、目の前の光景がどんどん流れていった。カナデが何度も根気強く教えてくれたフレーズも、風みたいに一瞬で通り過ぎていく。ああ、ちゃんと音が出てる。間違えてない。――わたし、ちゃんと吹けてるんだ。もうこのフレーズを演奏することはないのかと思うと、名残惜しさを感じてしまう。
カナデと練習した日々、先生に指摘された箇所、譜面に書かれた汚い文字。間違えても、止まらない。音楽は、生きているみたいに前へ進んでいく。必死だった。でも、少しだけ楽しかった。
気が付けば、最後の音が鳴り響き、静かに消えた。終わった……? その瞬間、世界が急に止まった気がした。手も、楽器も、動かせないままだった。呆然と客席を見つめると、そこには、笑顔があった。子どもも、大人も、みんな――にこやかな顔で、惜しみない拍手を送ってくれていた。
「……ミナ!」
カナデの声に、はっと我に返る。慌てて椅子を蹴るように立ち上がりながら、わたしは思った。
『自分の演奏で、誰かがこんな風に喜んでくれるって、知らなかった』
――いつか海辺で聞いたカナデの言葉が、胸の奥でよみがえる。今ならその言葉の意味が、少しだけ分かる気がした。