↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
90/239

第十九話 雨の日と恋心(4)

 他愛もない話を交わしていたそのとき、ふいに扉がノックされた。その音に、びくりとわたしの肩が跳ねる。反射的にカナデを見ると、驚く様子もなく、ごく自然に「はい」と答えていた。


 扉が静かに開き、姿を現したのは、カナデの担任――新町先生だった。ゆるく着崩したスーツ、無精髭のような影、そして分厚い眼鏡。わたしも地学の授業を取っているけれど、その感情の読めない無表情には、いまだに慣れない。今日も、冷たい空気を纏っていた。


「……松波さん。早速居座っているんですね」


「はい。先生が使っていいって言ったので。おかげさまで快適です、ここ」


 カナデは少しも悪びれる様子もなく、むしろくつろいだ笑顔で応じていた。その様子に、新町先生はほんの僅かにため息を吐く。


「……それは良かった。ならば午後の授業にも、ぜひ出席してください」


 淡々とした声で返しながら、新町先生はわたしの方に視線を移した。


「貴女は……G組の春日さん、ですね」


「は、はい。お邪魔してます……」


 眼鏡越しの視線が、静かにわたしを射抜いてくる。その瞳の奥に何があるのか、まったく読めない。無表情の壁にぶつかったようで、わたしは思わず身を引いた。


「……春日さんは、松波さんのご友人ですか?」


 その質問にわたしが答える間もなく、カナデがすぐに口を開く。


「そうですよ。私の、高校の唯一の友達です」


 さらりとしたその言葉に、心臓が締め付けられる。その唯一という響きが、喉の奥に引っかかった。


――わたしも、そうだよ。カナデが、わたしの特別なんだ。


 けれど新町先生は一切表情を変えずに頷くと、眼鏡の奥で目を細めるでもなく、ただ一度だけ深く息を吐いた。ため息というより、事務的な区切りの呼吸のように。教室の外の雨音みたいに淡々としていて、だからこそ言葉の刃がまっすぐ刺さる。


「そうですか。春日さん。松波さんは、現在のままでは出席日数が足りず、留年の可能性があります。……ご友人として、何かしら助言をしてあげてください」


「えっ……」


 一瞬、言われた意味がわからなかった。その単語だけが、耳の中で遅れて反響する。輪郭のない音がようやく意味を帯びた瞬間、背中から冷たいものが走った。


 留年。カナデが、わたしと違う学年になる。そんな未来、これっぽっちも想像していなかった。



 わたしは勢いよく、カナデの方を振り返った。カナデはいつもみたいに平然としていて、口元には「バレたか」とでも言いたげな薄い笑いさえ浮かんでいる。まるで他人事みたいに。


「カナデ! ねえ、うそでしょ……?」


 声が勝手に震えた。喉の奥が詰まる。怖い、想像したくない。ここで離れたら、もう友達のままでも隣にいられない気がする。


「留年なんて、だめだよ……!」


 夏休み明けから、昼休みもいない日が増えて。出席率が悪いとは思っていたけれど、それでもいつものサボりの延長だと思っていた。笑って済ませられる範囲だと――勝手に、思い込んでいた。


「やだ、ねえ……一緒に二年生になろうよ! わたしだけ進級なんて、やだよ……!」


 頭の中がぐちゃぐちゃになって、言葉が追いつかない。視界が滲んだときには、もう止まらなかった。気づけば、身体が勝手に動いていた。椅子が床を擦る音がして、わたしは立ち上がっていて、カナデの肩を掴んでいた。揺さぶった、というより、確かめたかった。ここにいると。いなくならないと。


「ちょ、ちょっとミナ……」


 カナデが苦笑する。いつもの、軽い顔だった。だけど、その目が一瞬だけ泳いだ。わたしの涙に、ほんの少し驚いたみたいに。


「落ち着いてって……分かったから……」


 カナデはわたしをなだめるように、困ったように笑っている。それでも、わたしは止まれなかった。怖かった。カナデと離れる未来なんて、考えたくない。いくら不良の松波と言われていても、カナデが留年してしまうなんて……。


「あーもう、ミナ……泣かないでよ……」


 わたしに掴まれたままカナデは天井を仰いで、わざと大げさに息を吐く。だけどその声は、ほんの少しだけ柔らかかった。


「だってさー、教室にいてもつまんないし……。でも、留年はさすがにヤバい……」


 言い訳みたいに呟いてから、カナデは小さく肩をすくめる。それでも、きっと留年の重みがわかっていないわけじゃない。目だけが、少し真面目に戻った。


「……あっ、そうだ」


 カナデは何かを思いついたらしく、明るく手を叩く。綺麗な黒目を輝かせて、どこか得意げにわたしに向き直った。


「ミナとさ、朝一緒に登校するのはどう? ミナが待ってるって思えば、私も頑張って起きれる気がするし」


 その言葉は、ずるいと思った。そんなふうに言われたら、怒るより先に、わたしは安心してしまう。待ってるという言葉ひとつで、わたしの怖さは少しだけ形を変える。


「うん、そうする……」


 鼻をすすりながら頷いて、涙を誤魔化すみたいにカナデを睨んだ。


「来なかったら、カナデの家まで行って引っ張っていくね……」


 脅しのつもりなのに、声が涙でぐずぐずだった。カナデはそれを見て、堪えきれないみたいに笑った。


「ははっ、それなら安心だ」


 カナデは机の上のティッシュ箱を引き寄せて、片手で一枚抜く。わたしの前に差し出して、からかうように口角を上げた。


「はい。泣き虫のミナにあげる」


「もう……! 誰のせいで、泣いてると思ってるの……?」


 わたしは文句を言いながら、相変わらずあっけらかんとしたカナデから素直にティッシュを受け取った。カナデの手の近さが、熱い。ティッシュ一枚でさえ、妙に大事なものみたいに感じてしまう。


 そのやり取りをずっと無言で見ていた新町先生が、ふいに小さく頷いた。相変わらず、表情は薄い。けれど声には、ほんのわずかに観察の色が混ざっていた。


「……なるほど。春日さんと松波さんは、本当に仲が良いんですね」


 仲が良い。その言葉が、胸の中に静かに落ちる。カナデは先生をちらりと見て、「そうなんです」と即答した。そして、冗談みたいな声を重ねていった。


「だからさ、先生。来年のクラス分け、春日さんと同じにしてくださいよ。そうしたら私、ちゃんと学校来ると思います」


 冗談の形をしているくせに、どこか本気だ。同じクラスがほしいのは、きっとわたしだけじゃない――その事実が、涙の残った目の奥をまた熱くした。


 新町先生は、淡々とカナデを見る。すぐに肯定もしない。けれど否定もしない。ただ、事実を積み上げるみたいに言った。


「……まずは、貴女が無事に進級してからですね。話はそれからです」


「そうだよ、カナデ……! 絶対二年生になって……!」


 わたしはティッシュを握ったまま、もう一度カナデを真っ直ぐ見上げる。今度は泣かない。泣いている場合じゃない。好きを隠している代わりに、ここだけは譲れない。


 わたしの隣に、いてほしい。


「分かったよ……頑張る」


 そう呟いたカナデは頬を掻いて、目を逸らして、それでも最後には小さく笑った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。