第十九話 雨の日と恋心(3)
日菜子と若葉に手を振りながら、弁当箱を持って教室を抜け出した。地学準備室は、特別棟の一番奥。昼休みとは思えないほど静まり返った廊下は、まるで別の世界に続いているみたいだった。
わたしの足音だけが、かすかに床に吸い込まれていく。寒さで手先が、じんと冷たい。でも、胸の奥はまるで逆。熱でもあるかのように、火照っていた。
古びた扉の前で足を止め、曇ったガラスを見つめる。向こう側の様子はわからない。カナデが本当にいるのかも、確認できない。なのにわたしの心臓は、確かにそこに向かって鳴っていた。うるさいくらいに。
――こんなにドキドキするの、いつぶりだろう。
震えそうになる手で、そっとノックをする。返事が聞こえる前に、指先で扉を控えめに引いた。
「はーい。……あ、ミナじゃん。来てくれたんだね」
暗がりのなか、カナデがパイプ椅子に背を預けていた。テーブルの上にはカナデの荷物が無造作に広がっていて、いつもの気取らない雰囲気に、少しだけ緊張がほどける。
「こないだの面談でさ、雨の日は居場所がないって言ったら、担任にこの部屋使っていいって言われたんだ。まあ、サボるなって念押し付きなんだけど」
椅子にもたれながら、カナデが楽しそうに笑う。くしゃっと崩れる笑顔が、思わず胸をくすぐった。そういえば、カナデのクラスの担任は、地学の先生だった。だけど……さすがというか、なんという特別対応。
わたしも対面の椅子を引いて、そっと腰を下ろす。静まり返った準備室の空気は冷たいのに、不思議と居心地がよかった。窓から差し込む薄い光に、宙を舞う埃が鈍く漂っている。まるで、世界から切り離された秘密の場所みたいで――その空間にふたりきりなのが、信じられないくらい嬉しかった。
お弁当の蓋を開けながら、わたしはカナデの顔を盗み見る。少し前かがみになってパンにかじりつく姿はどこか無防備で、子どもみたいなのに……それでも、やっぱりかっこよくて、かわいくて、大人っぽくて。そんな矛盾だらけの存在が目の前にいることが、ただもう眩しくてしかたない。ふと視線が合った瞬間、鼓動が跳ね上がる。
「ミナ……見すぎだから」
カナデが口元を緩めて、からかうように笑った。
「何か、言いたいことでもあるの?」
「えっ……」
「さっきからずっと、こっち見てきてるじゃん。分かりやすすぎ」
言ってごらん? というふうに、カナデは掌を差し出してくる。その余裕のある仕草に、ますます言葉が詰まっていく。喉が、張りつく。呼吸が、うまくできない。でも、今言わなきゃ。ここで逃げたら、絶対に後悔する。
「あ、あのね……」
「うん?」
「その……クリスマス、なんだけど……」
声が震えるのを誤魔化すように、わたしは視線を逸らした。ちらっとカナデを見れば、首を傾げて、わたしの言葉を待っている。
「……コンサートのこと?」
「ち、違うの! コンサートの……次の日。クリスマス当日なんだけど……その、カナデ……予定、ある……?」
言い切った瞬間、全身の力が抜けた。俯いたまま、顔だけが熱くなっていく。喉の奥が詰まって、呼吸すら苦しい。カナデの反応が、怖くてたまらなかった。
えっ……なに? 無言? もしかして、困らせちゃった? やっぱり、早まったかも――! そんな不安が急激に膨れ上がっていくなか、カナデがふっと笑い出した。
「ははっ……そんな、泣きそうな顔しないでよ。ごめんごめん。あまりに必死なミナが可愛くて、つい」
それは、どこか茶化すような声だった。だけど、どこまでも優しい。
「ふふっ……大丈夫だよ。なるほどね、クリスマスデートのお誘いだったか……」
その一言に、息が止まりそうになった。わたしはそんなつもりじゃない、はず。いや、でも……! カナデの姿を直視できなくて、思わずテーブルの端に視線を逸らす。
「もう、カナデったら……!」
デートじゃないと言いたいのに、違わないとわかっていて、言葉が消えた。恥ずかしさで、顔から火が出そうだった。だけど――わたしの誘いを、受け入れてくれた。それが、ただただ嬉しくて、身体が熱くなる。勇気を出して、好きな人に、ほんの少しだけ気持ちが届いた――それだけで、今日が特別な日に変わるようだった。
「それにしても、クリスマスかあ……。何するの?」
「そ、それは……これから、考えます……」
言いながら、わたしは顔を両手で隠した。カナデと視線を合わせるなんて、怖くてできない。耳の奥がうるさく脈打って、掌にも鼓動が伝わってきそうだった。そんなとき、テーブルの向こうからするりと手が伸びてくる。そして、そのままわたしの頭に躊躇うこともなく、ぽんと置かれた。
「えっ……カナデ……?」
「いや、どうせミナのことだから……ひとりで悩みそうだなって思って。まだ時間あるし、一緒に考えようよ」
そのまま、わしゃわしゃと髪を撫でられる。まるで、犬か猫でもあやすみたいだった。わたしは完全に固まってしまって、頭が真っ白になった。心臓の音だけが、身体の中で大きく鳴っている。撫でられた髪から熱が伝わってきて、心まで撫でられているようだった。
動物みたい、なんて思われているのかもしれない。でも、こんなふうにカナデが触れてくれるのは――きっと、わたしだけ。
わたしは身体をこわばらせたまま、されるがままになっていた。一通り撫で終えたカナデが指先でわたしの髪を整えてから、にこりと笑った。
なにそれ。優しいくせに、ずるい。
「ねえ……妹扱いの次は、動物扱いなの……?」
わざと拗ねたように睨むと、カナデはわたしと目を合わせて、ふっと笑った。その笑みはどこか遠くを見ていて――ほんの一瞬懐かしさの混じった、優しいまなざしだった。
「ふふ、どうだろうね。ミナってほんと……可愛いよね」
その言葉が、わたしの中にすとんと落ちた。冗談混じりだって、わかってるのに。からかってるだけだって、知ってるのに――でも、たったそれだけで。わたしの全部が、カナデに染まってしまいそうだった。




