第三話 友達の色と潮風(1)
壁に掛けられた時計が、まだ早い時間を指していた。人の少ない教室に、朝の光が静かに降り注いでいる。その温度はどこまでも柔らかくて、まるで昨日の余韻がそのまま続いているみたいだった。
――昨日の夜、ネオンの街を並んで歩いた。ポテトの香りと、トランペットケースの重み。肩越しの笑顔。あの横顔は、触れたら壊れそうなくらい綺麗で――世界の色が変わった気がした。その熱が、今も胸の中に残っている。
窓から差し込む光が机に伸びて、うっすらと指先を照らしていた。わたしはふと、自分の掌を見つめる。あの金色の音に、触れた手。差し出された、あの言葉。
『ミナに、持っていて欲しいんだ』
そのたった一言が、いまだにわたしの中で響いていた。だけど現実は、今日も教室という定位置にわたしを押し戻す。ゆっくりと息を吐いた、そのとき――背後でがらりと、勢いよく教室の扉が開く音がした。
振り向けば、こけしみたいな丸い頭――クラスメイトの汐見若葉が、ぱちぱちとまばたきを繰り返していた。そしてまるで、動物園の珍獣でも見つけたかのように、わたしに向かって指をさしてくる。
「あーっ、美奈氏だ! もういるなんて、珍しー! 今日は朝早いねー、どしたの?」
若葉はリュックを背負ったまま、小動物みたいにわたしの元へ駆け寄ってきた。朝の光と一緒に、彼女のテンションもまっすぐわたしに飛び込んでくる。ちょっと失礼じゃないかと内心思いつつも、わたしは笑顔を作って、小さく息を吸う。そして、あらかじめ用意していた正解を、いつものように口にする。
「おはよう、若葉ちゃん。わたしが早起きなんて、珍しいよね」
「いやいや、ほんとだよ。びっくりだよ。だって美奈氏、いっつも遅刻ギリギリじゃん。何か良いことでもあったん?」
「いや、たまたま。こういう日、年に数回あるんだよね……」
あははと、笑って誤魔化す。それはごく自然なふりをした、嘘だった。本当は――昨日カナデと別れてからスマートフォンに届いていた、たった一行のメッセージ。
『明日は一日、学校に行こうと思う』
それを見た瞬間、胸がふいに熱くなった。カナデが来るのなら、わたしも行かなきゃ。もしかしたら、会えるかもしれない。ほんの少しだけでも、また顔が見られたら。そんな期待を、なぜか止めることができなかった。
その気持ちが、わたしをベッドから一時間も早く起こした。髪を丁寧に梳かして、制服のネクタイをいつもよりゆっくり整えて、カナデから託された楽器ケースをわざわざ持って。それでもまだ早すぎる時間に、家を出てしまった。
でも――そんな話を、若葉にすることはできなかった。言ったところでからかわれるのがオチだし、深入りされるのも面倒くさい。だからわたしはいつも通り、当たり障りのない言葉を選んでしまう。笑顔を作って、その場をやり過ごす。
だけど、カナデは違った。わたしの何もないところに音を差し出して、わたしのままでいていいと、正面から言ってくれた。
なのに今のわたしは、また元通り。若葉の前で、何もかもを丸めて誤魔化している。そのことに気づいて、胸の奥が少しざらついた。
「あ~、あるある。たまにめっちゃ早く起きちゃう日、あるよねー。あ、日菜子氏だ! おっは~」
教室の後ろの人影に気づいた若葉が、ぶんぶんと勢いよく手を振った。視線をたどれば、轟日菜子が教室に入ってくるところだった。わたしたちに気づくと、彼女はいつものように優しく微笑んで、小さく手を振ってきた。
「若葉ちゃん。あれ、美奈ちゃんもいる。おはよう~」
そのふんわりとした声に、軽く手を振って挨拶を返す。日菜子は教室の真ん中あたりの自席に鞄を置き、わたしたちの元にやって来た。
若葉と日菜子。このふたりが、わたしが普段の学校生活を共にするクラスメイトだった。若葉は小さな身体で、声と距離の詰め方だけは誰よりも大きい。文芸部で小説を書いているらしく、わざとなのかわからないけれど、話し方がオタクっぽくて独特な子だ。
対する日菜子はいつもその隣でふわりと笑って、場の角を丸くする。ふわふわの長い髪を耳の下で二つに結い、放送部に入っているからなのか、彼女の声はいつも砂糖菓子みたいに甘くて柔らかい。
クラス唯一のマイナー文化部のふたりは仲間意識を持って自然と仲良くなり、そこに教室で浮いていたわたしが加わった。名前も部活も知っている。休み時間には笑い合える。でも――彼女たちが何を大事にして、何を悩んでいるのか、わたしは知らない。聞いたことがない。それが申し訳なくて、怖かった。
後付けということもあり、わたしはどうも、彼女たちと波長を合わせられていない気がする。いつもそうだ。このふたりと一緒にいるとき、わたしは聞き役になってしまう。輪の中にいるはずなのに、どこか外から覗いているような感覚で――人間関係の輪郭が、よくわからないままだった。
「……ね、いいよね、美奈氏?」
「えっ?」
突然声をかけられて、思考が一気に引き戻される。さっきまで、完全に置いてけぼりだった。顔を上げると、若葉と日菜子が揃ってわたしの顔を覗き込んでいた。
「あ、もしかして今、美奈氏寝てたでしょ? まあ、早起きしたからしょうがないかー」
「若葉ちゃんが体操服を忘れたから、別のクラスに借りに行こうっていう話になって。まずは、C組から行こうかって言ってたの」
日菜子は呆けていたわたしをまるで気にしていないかのように、さらりと補足をしてくれる。その笑顔に、罪悪感が湧いた。きっと、このふたりはわたしを置いて、話を進めるつもりなんてなかったんだ。いつだってちゃんと、わたしを仲間に入れてくれようとしている。
うまく受け入れることができていないのは、わたしだけで。だけど――仲間って、一体どうしたらなれるんだろう。
それに、今さっきまでどんな話題だったのかもわからなかったわたしに、「いいよね?」と聞くのは、少し奇妙な気がした。たぶん若葉にとってそれは、「もう行くから、ついてきてね」くらいの意味なんだろう。そんなことに引っかかるほうが、きっと面倒なのだ。
「ごめん、半分寝てた……。C組ね! 若葉ちゃんの知り合いでも、いるの?」
「うん! 文芸部のヤツがいるんだ~」
わたしは、いつもの曖昧な笑みを浮かべて立ち上がる。スカートの裾をさりげなく整えながら、ふたりを見た。若葉は満足そうにくるりと踵を翻し、教室の扉へ歩き出す。その後ろを、日菜子とわたしが保護者のように付いていった。




