第三話 友達の色と潮風(2)
ブレザーに包まれた若葉の小さな背中を眺めながら、ふと思い出す。C組……その文字を心の中でなぞった瞬間、鼓動が早くなった。確か、カナデのクラスだ。そう思っただけで、なぜだか胸が締め付けられる。会えるかもしれない。いや、会いたい。でも――どうしよう。
もし目が合ったら、声をかけられたら、わたしはどんな顔をすればいいの? それに、誰か他の人と一緒にいたら……。
C組の教室の扉をくぐった若葉は、他のクラスの教室だというのに、まったく物怖じしない。まっすぐ、ずんずんと中へ進んでいく。その背中が頼もしく見える一方で、どうしてだろう。わたしの足取りは、ほんの少しだけ重たかった。
お目当ての生徒まで辿り着いたらしい若葉は、ばっと両手を広げて背中に勢いよく抱きついた。机で文庫本を読んでいた女子生徒の身体はその反動で、バランスを崩し前のめりになる。
「柊氏~! おはよう! 体操服貸して!」
「ちょっ、若葉! 教室でその名前は呼ぶな! ていうか、抱きつくな! 体操服は貸すけど!」
柊、と呼ばれた女子生徒は勢いよく若葉の口を塞ぎ、慌てて周囲を見回した。だけど周りで特段気に留めた生徒はいなかったようで、彼女は安心したように息を吐き出す。
「柊、はペンネームだから! 部活以外禁止!」
「えっ、でも柊氏……本名何だっけ?」
「桜木冬子だ!」
体操服を片手に大声でやり取りをするふたりの会話に耳を傾けながらも、わたしの視線は、別の場所を探していた。
――いた。
教室の奥、窓際の席で、ひとり突っ伏すように眠っている黒い髪。イヤホンが耳に挿されていて、こちらの気配には気づいていない。風に吹かれて揺れるその髪が、もうすっかり見慣れた短さで、見慣れた色で――だけどその姿を見るだけで、わたしの呼吸は不自然に止まりそうになった。
声をかけたら、迷惑だろうか。授業じゃないからって、寝ているところを邪魔するのは……。
そんな理屈を並べながらも、胸の奥では別の感情がざわついていた。さっきまで聞こえていた若葉と冬子の会話も、日菜子の気配も、全部遠くに感じる。
――触れたい。近づきたい。でも、怖い。
カナデに向かって伸ばしかけた手を、そっと胸元で握りしめる。教室は騒がしいはずなのに――わたしだけが、カナデの寝息すら聞こえてきそうな静けさの中にいた。心臓が、たったひとりで騒いでいる。ふっと息を吐いた拍子に、自分の肩がこわばっていたことに気がついた。
その瞬間、耳に飛び込んできたのは、若葉の笑い声だった。若葉と冬子は、気づけば昨晩放送されたアニメの話で盛り上がっていた。キャラクターの関係性や伏線の話らしく、きゃいきゃいと身振りを交えて盛り上がっている。隣では日菜子が、微笑みながらその様子を見守っていた。
その輪の中に、わたしの居場所はなかった。言葉がわからない。タイミングもつかめない。ただそこにいるだけの自分を、じわじわと意識してしまう。会話のリズムが合わない。温度も違う。居心地が悪くて、わたしは静かに視線を彷徨わせた。
――そのとき、目が合った。
いつの間にか顔を上げていたカナデと、視線がぴたりと交差する。カナデはイヤホンを挿したままふっと口元だけで笑い、机に肘をつけて右手をひらひらと振ってくる。その何気ない仕草があまりにも自然で、でも、あまりにも特別で――胸が一度、音を立てた気がした。
わたしもそっと、手を振り返す。言葉は交わさない。距離もそのまま。でも、確かにそこに――わたしを見てくれるカナデがいた。たったそれだけのことなのに、身体の芯がほんのり熱くなる。
わたしに気づいてくれた。わたしを覚えてくれている。わたしを――見てくれている。そのなんてことない事実が、何よりも嬉しかった。だけど、そんなささやかな交流は、唐突な衝撃によって壊される。
「美奈氏、日菜子氏! ヤバい! そろそろチャイムが鳴るし、撤退するぞ~!」
背中に勢いよく何かがのしかかってきて、思わず変な声が出た。若葉だった。わたしと日菜子に勢いよく覆いかぶさるように抱きついて、満足そうに声を張り上げる。
「柊氏も、体操服ありがとねー! 後で返すから~」
「……だから、その名前はやめろって言ってるだろ!」
若葉はわたしたちからぽいっと身体を離し、そそくさとその場を去っていく。解放されたわたしと日菜子は咳き込みながら、顔を見合わせた。日菜子は困ったように笑い、その優しげな目を細める。
「美奈ちゃん、私たちも行こうか」
わたしはこくんと頷いて、ふともう一度、教室の奥を振り返る。カナデは机に肘をついたまま、わたしたちを眺めていた。
わたしと視線が重なると、今度は少し困ったように眉を下げて、また手をひらひらと振った。その表情は、同情? からかい? それとも……ただ、見ていただけ? どんな感情かは、わからなかった。だけどわたしも、思わず困ったような笑顔を浮かべて、もう一度小さく手を振り返した。
教室を出ると、若葉が「遅いぞ~」と言いながら、廊下の真ん中で仁王立ちをしていた。ぷんすこしながら足を鳴らして先に進む若葉を追いながら、日菜子がこちらに目を向ける。彼女が首を傾げた拍子に、ふわふわな髪の毛が揺れた。
「……美奈ちゃん。松波奏さんと、友達なの?」
名前を聞いた瞬間、びくりと身体が跳ねた。反射的に日菜子を見つめると、彼女は一度まばたきをして、ただ不思議そうな顔をしていた。
――どうして日菜子が、カナデの名前を?
つい戸惑っていると、前を歩いていた若葉がくるりと振り返った。
「あー、松波奏ね。『不良の松波』、でしょ? そういえば、さっき珍しく教室にいたねー」
その一言に、呼吸が止まりそうになる。えっ、不良? ……カナデが?
「わ……若葉ちゃん。それって、どういう……」
震える声で問いかけると、若葉がきょとんと顔を傾ける。「美奈氏、知らんの?」と前置きして、さらりと言った。
「松波奏、有名だよー? サボり魔で、成績最強の問題児ってやつ。学校全然来てないのに、勉強はめちゃくちゃできるって。入試も首席だし、こないだのテストも一位だったらしいねー? そんなだから、先生も何も言えないんだってね。いいなー」
放たれる言葉に、頭が追いつかない。わたしが知っているカナデは――確かにサボり魔みたいだけど、朝の潮風の中で、金色のトランペットを吹いていた人。カラオケルームで笑いながら優しく楽器を教えてくれた人。少し不器用で、でも真っ直ぐで、ちょっと不思議で――それだけの存在だった。わたしの知っているカナデと、ぜんぶ違う。いや、違うんじゃない。きっとわたしが、何も知らなかっただけだ。
「あと、楽器がすっごく上手いって聞いたよ。吹奏楽部の部長が直々にスカウトに来たのに、入部断ったって……。なんか、自分を持ってる感じがして、かっこいいよねえ」
そう言った日菜子が、目を輝かせて笑う。わたしは口を開けたまま、何も言えなかった。
――そんなの、何ひとつ知らなかった。知らなかった。あの人が、そんなふうに有名な存在だったなんて。カナデのことを知っているつもりになっていたのは、わたしだけだった。
わたしが知っていたのは、「松波奏」という女の子の、ほんの一部分だけだった。そのことが、なぜか――ものすごく苦しくて。気づけば、掌がじっとりと汗ばんでいた。
「で、そんな松波奏と美奈氏は友達になってたなんて……なるほどねん。おいおい、いつの間にそんな面白いことになってたのさ?」
振り返ったままの若葉が、ずいっと距離を詰めてくる。瞳をきらきらさせて、面白がっているのが全開だった。その隣で、日菜子も静かにわたしを見つめていた。柔らかな目の奥に、どこか輝きが宿っている気がして――わたしは、息を呑む。
「松波さん、すごくかっこいいよね……。あのすらりとした姿も、凛とした顔立ちも……なんというか、見惚れちゃう」
日菜子の宙を見上げるように目を細めたその表情が、どこか夢見がちで――その頬が、ほんのり赤くなっているように見えたのは、きっと気のせいじゃない。それに気づいた瞬間、胸の奥が細い針で刺されたみたいに痛んだ。
「そうかー? まあ、日菜子氏はイケメン系の女子に弱いからねー。ああいうのが好きなのか……」
若葉が笑いながら、日菜子を茶化すように言う。けれど、わたしの耳に入ってきたのは、その単語の方だった。イケメン女子。好き。えっ。日菜子が――好きな人?
以前の雑談の中で、そんな話があったのかもしれない。でも、きっとそのときのわたしは――また、何も聞いていなかったんだろう。
「だって、松波さん本当にかっこいいんだもの! ……でも美奈ちゃん、私には本命がいるから安心して。松波さんのことは……いわゆる見る専だから。ふふっ」
日菜子は頬に手を当てて、恥ずかしそうに微笑んだ。本命と、見る専。そのふたつの言葉が頭の中でふわふわと浮かんでは、形を結ばずに散っていく。見る専、っていうのは……たぶん、憧れ枠。本命、は――きっと、ちゃんと恋の対象ってこと。
……じゃあ、つまり日菜子には、そういう相手がいるんだ。なんて思考を巡らせていたそのとき、始業を知らせるチャイムが廊下に響く。
「うおー! やばい! 遅刻だ!」
若葉がわたしたちの肩を叩いてから、ばたばたと走り出していく。日菜子はふわっと微笑んだまま背を向け、優雅な足取りでそのあとを追っていった。
わたしだけが遅れて、その場に立ち尽くす。慌てて動き出す足が、なんだか妙に重かった。




