第十九話 雨の日と恋心(2)
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『今日の昼休みは地学準備室にいるから。気が向いたら、おいでよ』
授業中、ブレザーの中でスマートフォンが小さく震えた。そっと机の下で画面を覗き込むと、そこにはカナデからのメッセージが浮かんでいた。
……地学準備室?
随分と珍しい場所を選んだなと思いつつも、胸の奥がふわりと跳ねるのを感じる。カナデも授業中のはずだけど、こんなことしてて大丈夫なの? と思いながらも、指先は勝手に返事の文面を考え始めていた。
窓の外には、朝から降り続く細かな雨。鉛色の雲が空を覆っていて、世界はどこかぼんやりと鈍い色をしていた。空気も冷たくて、今日はやけに肌寒い。なのに、わたしの胸の奥だけが、ぽかぽかと火照っていた。
地学準備室か――と考えながら、カナデの姿を思い浮かべてしまう。左手で頬杖をつき、教科書を開いているふりをしながら、思考はどんどん脱線していく。どうしてこんなにも、考えてしまうんだろう。昼休みに会う、それだけなのに。ほんの少し会話を交わすだけなのに、こんなにも心が浮ついてしまう。
ふと、手元のシャープペンシルに目を落とす。わたしの私物にしては珍しく紺色の、シンプルなデザインだ。以前、カナデと出かけた時に「お揃いにしよう」と言って選んだもので……あの日のことを思い出すだけで、胸の奥が温かくなる。意味もなくノックをしてみたり、指先でくるくると回してみたり、集中しようとしても意識がそぞろでどうしようもない。黒板を見つめながら、ふとノートの端に落書きのように書いてしまった。
『奏』
『松波奏』
――って。一体やってるんだろう、わたし。
慌てて消しゴムを取り出してこすってみたけれど、筆跡はかすかに残ったままだ。奏……名前なんて毎日のように口にしているのに。文字にしただけで、どうしてこんなに照れてしまうんだろう。ただの漢字なのに、こんなにも胸をざわつかせるなんて。
「……じゃあこの問題を、そこでぼけっとしている春日!」
突然名前を呼ばれて、心臓が飛び跳ねた。ぱっと顔を上げると、先生が黒板を指差している。そこには、見慣れない数式の羅列が並んでいた。頭は完全にカナデでいっぱいだったせいで、何の問題かすら分からない。指された瞬間、すべての血が引いていくのを感じた。
昼休みのチャイムが鳴り響き、わたしは溜息をつきながらノートを閉じた。……集中していなかったせいで、完全に恥をかいた。恥ずかし過ぎて、もう、穴があったら入りたい。わたしって……カナデのことを考えてると、本当に周りが見えなくなる。ちょっとおかしい。いや、おかしくなっている。まるで……自分が自分じゃなくなっていくみたいだった。
「いや〜、美奈氏ヤバかったね。居眠りでもしてたの?」
若葉が近づいてきて、心底気の毒そうな顔をわたしに向けた。カナデのことばかり考えていました、なんて口が裂けても言えない。言ったら爆笑されるに決まっている。曖昧な笑みを浮かべると、日菜子も息を吐きながらやってきた。
「……私も、今日は全然授業入ってこなかった。蒼ちゃんのこと考えてて……当たったらやばかったかも……」
「えっ。日菜子氏マジで? クリスマス効果、やべえな……」
日菜子を見ながら若葉が苦笑し、わたしも愛想笑いを返しつつ、日菜子の言葉にちょっとだけ救われる。わたしだけじゃないんだ――恋をしている人って、みんな、こんなふうにちょっと浮かれていて、ちょっとだめになるのかも。勉強よりも、授業よりも……カナデのことが今のわたしには大事だなんて思ってしまう。……こんなのじゃいけないと自戒しつつも、やっぱり思い浮かべるのはカナデのことだった。