第十九話 雨の日と恋心(1)
朝から降り続く細かな雨が、制服のブレザーにじわりと染みていく。冷たい空気が肌を刺し、湿気を含んだ髪はせっかく整えたのに勝手に跳ねて、勝手に主張する。足取りも気分も重く、下を向いたまま教室の扉を開けた、その瞬間――。
「おっ、美奈氏! おっはー!」
ぱっと空気が一変した。若葉の明るい声が、灰色の世界に光を差すみたいに飛び込んでくる。その横でスマートフォンをいじっていた日菜子も、にこりと笑顔を向けてくれた。わたしは鞄を机に置き、手を振りながらふたりのもとへ歩み寄る。
「美奈ちゃん、おはよう。あのね、ちょっと相談があって……」
席に近づくなり、日菜子が声をひそめて顔を寄せてきた。いつもより妙に真剣な目に、なにかあったのかと身構えた瞬間――日菜子は静かに言う。
「……もうすぐクリスマスでしょ? どこに行くか、決めた?」
その言葉に、思わず目を瞬かせた。心配事でも、悩み事でもない。だけどその単語だけで、身体の芯がすとんと軽くなる。
「……えっ?」
日菜子はわたしの返事を待つ間もなく、スマートフォンを差し出してきた。画面いっぱいに躍る見出しには、『クリスマスデート特集! この冬、恋人と行きたい人気スポット』と書かれている。
恋人。デート。特別な一日。きらきらした文字の列が、雨上がりのガラスみたいに眩しくて、つい目をつぶりたくなる。その様子を隣で見ていた若葉が、呆れたように肩をすくめて笑った。
「日菜子氏ったらさー、朝からそればっかりなの。美奈氏もなんか言ってやってよー」
「だ、だって! 付き合って初めてのクリスマスだから、頑張りたいじゃない? とりあえず、昨日クリスマスデートのオッケーはもらったから……!」
「とは言ってもさあ、うちら高校生だから、そんなにすごいことはできないっしょー?」
「うーん、まあ……それはそうなんだけど〜……」
ふたりの軽口を聞きながら、わたしの中でだけ、別の音が鳴っていた。クリスマス。恋人と過ごす、特別な一日――その言葉が、わたしの胸にちくりと刺さる。そして日菜子がふっと真面目な顔のまま、わたしを見た。
「美奈ちゃん、クリスマスは……松波さんと?」
その一言で、教室の空気がほんの少しだけ止まった気がした。
「えっ……?」
カナデと、クリスマス。言葉が頭に浮かんだだけで、身体がふわっと熱を帯びる。だけど次の瞬間、現実がその熱を冷ましていく。だって、わたしたちは恋人じゃない。一緒に練習して、ごはんを食べて、楽団にも通って。たくさん時間を過ごしてきたのに、どこまで行っても友達の線の内側だ。
クリスマスを一緒に過ごしたい、なんて。そんなことを言ったら――カナデを困らせる? 重いって思われる? その想像だけで、喉の奥がきゅっと縮んだ。一緒にいたい。そう言えたら、どれだけ楽なんだろう。
「……あ、そうだ。イブの日は、楽団のクリスマスコンサートがあるから……。カナデとは一緒に……過ごせるよ」
そう口にした瞬間、自分でもわかった。それは答えじゃなくて、逃げ道だ。当日じゃないけど、会えるから――そんなふうに言い訳を並べた途端、声がかすれる。心だけが置いていかれるのに、口だけが安全な方へ滑っていった。
「美奈ちゃん! それは、クリスマスを一緒に過ごすって言わないから!」
日菜子の声が、思った以上にぱきっと響いた。それに思わず、肩が跳ねる。普段のふわふわした空気のまま、言葉だけがやけに真剣で――それが余計に刺さった。
「……って、ごめん……。つい熱くなっちゃった……」
照れ笑いで取り繕う日菜子に、わたしは言葉を失った。日菜子って、そんなふうに突っ込むんだ。恋をしてると、人ってこんなに強くなるんだ――そんなことまで、ぼんやり思ってしまう。
「ええ……? じゃあ……クリスマスの、当日……?」
声に出した途端、想像が勝手に走り出す。イルミネーションの下。寒い夜。触れる冷たい指先。カナデの横顔。わたしのことを見て笑う顔。
そんなの、夢みたいだ。夢すぎて、怖い。
「でも……カナデ……いいよって、言ってくれるかな……」
だって、そんな大胆なこと、できるわけない。わたしはカナデにとって――ただの「友達」なんだから。
ブレザーのポケットの中で、スマートフォンの角が指に当たる。取り出してしまえば、画面はすぐに開けるのに。誘う言葉を文字にするだけのことなのに、指先が動かない。
通知は、もちろん来ていない。来ていないのに、勝手に待っていた。
――誘いたい。けれど、怖い。
「誘ってみるだけ誘ってみたらー? 私も、クリスマスは柊氏とパーティーする予定だし」
若葉の言葉はいつも通りの軽さで、でもどこか背中を押す力を持っていた。わたしはふと、目を伏せる。
そっか。若葉も、日菜子も、もう予定があるんだ。
心のどこかが縮こまる。ふたりはそれぞれ、もう誰かとの時間を思い描いていて――迷いなく、その世界に足を踏み入れている。なのに、わたしだけがこんなにも、立ち止まっている。
「そうなんだ……ちなみに若葉ちゃんは、何するの?」
逃げるみたいに尋ねたわたしに、若葉は迷いなく言い切った。
「カラオケフリータイム、アニソン縛り耐久パーティー」
あまりにも若葉らしくて、思わず息が漏れる。悩みで固くなっていた肩が、ふっと軽くなった。隣で日菜子も、堪えきれないみたいにくすりと笑う。わたしもつられて、笑ってしまった。
そうだよね。クリスマスと言っても、みんながみんな、きらきらしたイルミネーションの下でロマンチックに過ごすわけじゃない。友達と笑い合って過ごすのだって、きっと素敵な時間だ。
――だったら、わたしも。誘うだけなら、してもいいんじゃないかな。ただの「友達」として、何気なく声をかけるだけなら……。
なのに、その言い訳を口にするほど、心が逃げていく。わたしは友達として誘いたいんじゃなくて、友達として振る舞っていたいだけなんだ。
「うわ〜、美奈氏も悩み始めちゃったよ。しょうがないなあ……」
言葉を失っているわたしをちらりと見て、若葉が呆れたように両手を組む。
「ふたりとも、どうせプレゼントとかでも悩むんだろー? 今度放課後にさ、モールでも行かない? 私も柊氏に渡すヤツ、見に行きたいんだよね〜」
その言葉に日菜子がぱっと顔を輝かせて、わたしもつい頷いていた。
プレゼント。カナデは、何をもらったら嬉しいんだろう。その答えを想像するだけで、少しだけ胸が温かくなる。でも、その前に――わたしは「クリスマスを一緒に過ごしたい」と、カナデに伝えなきゃ。
ポケットの中で、スマートフォンをぎゅっと握りしめる。画面を開くのが怖いのに、それでも意識を手離せない。指先が触れるだけで、しっとりと汗が滲んでいく。
――カナデを、クリスマスに誘う。あくまで友達として。それだけのことなのに……どうしてこんなに怖くて、愛おしいんだろう。




