第十八話 過去の音色(3)
「奏って……本当美奈ちゃんのこと好きなんだね」
以前、美奈にも同じことを言ったことがある。そのときは、少しからかう気持ちもあったけれど――今は違う。ただ、その笑顔を見ていたら、自然とそう思えた。
「えっ、そう見える?」
奏は少し目を丸くして、それから息を吐くように笑った。
「……ははっ、そうかもね。私、ミナのこと大好きかも」
こちらが拍子抜けするほど、あっさりした口調だった。けれどその言葉は、あまりにも真っ直ぐで、どこまでも揺らぎがなかった。まるで好きという感情に、迷いも疑いもないかのように。それが誰かにどう見えるかなんて気にしていない、子どものような透明な肯定。
あの夏――『ミナは、私のでしょ』と、かすれた声で必死に訴えた奏とは、ずいぶん違って見えた。あの時は、きっとまだ自信なんてなくて。彼女を失うのが怖くて、ただただ必死だった。
今の奏は違う。ちゃんと信じている顔をしていた。美奈ちゃんが自分の隣にいてくれることを、心の底から信じている顔だった。
そう言って、照れる様子もなく笑う奏を見て、ほのかは思わず目を細める。祝福したいのに、心が遅れてついてくる。こんなに素直な奏を見るのは、もしかしたら――初めてかもしれない。
昔の奏は誰に対しても興味がなさそうで、何にも縛られない子に見えていた。好きとか嫌いとか、そういう人間らしい感情に縁のない存在だと、どこかで勝手に思っていた。
でも――本当は、ずっと抱えていたのかもしれない。ただ、それをどう言葉にしていいのか、分からなかっただけで。それとも、美奈ちゃんが奏を変えたのだろうか。
「このあいだ、美奈ちゃんにも同じことを言ったけど……。美奈ちゃん、すごく照れてたよ」
そう言って笑うほのかに、奏も笑い返す。
「そうなの? ミナって、めちゃくちゃ照れ屋だからね。すぐ真っ赤になるし。そのくせ自分が恥ずかしがるようなことばっかり言うから、見ていて面白いよ。でも、そっか。ミナ……ふふ、見たかったな」
そう言って、奏は肩を小さく揺らして笑った。楽しそうで、あたたかくて、ほんの少しだけくすぐったそうな顔だった。今の奏のその笑顔が、ちゃんと誰かのために向けられていることが、ほのかには分かる。
――良かったね、奏。奏はちゃんと、大切に想える人と出会えたんだね。美奈ちゃんは、あなたのことを真っ直ぐに想ってくれている。あの子の優しさと勇気は、私の知っている誰よりも眩しい。
胸の中でこっそり芽生えた「美奈ちゃんとなら」という希望。それが今、こうして少しずつ形になっていくのを見ていると、やっぱり思う。
あの選択は、きっと間違ってなかった。だから私も、もう迷わない。
「……奏。美奈ちゃんのこと、大切にしないとダメだよ?」
ほのかは真正面から奏の目を見て、そう告げた。それは、ただのお願いなんかじゃなかった。ほのかの中ではもう、とっくに決まっていたことだった。
あのとき、私は奏の手を取れなかった。廊下の向こうで響いた声に、足がすくんでしまった。自分に与えられた役目ばかりを気にして、本当に守りたかったものに、手を伸ばすことができなかった。
でも――今は違う。
美奈ちゃんは、ちゃんと奏を見ている。迷いも、傷も、不器用さも、そのまま受け止めて。手を伸ばして、引っ張って、包み込んで――あの頃の私ができなかったことを、彼女は自然にやっている。
だからもう大丈夫だと、そう思えた。
奏はしばらく黙ったまま、ほのかの視線を受け止めていた。やがて目元を緩めて、小さく頷く。
「……分かってるよ。今度は、ちゃんと上手くやる。……ううん、ミナのためにも、上手くやりたいと思ってる」
ふっと笑いかけたくせに、奏はすぐに視線を落とした。まるで照れを隠すみたいで、ほのかは返事を探すより先に、その横顔を見つめてしまう。
「最近さ……ちょっとだけ、自分が変われた気がするんだ。前よりも、周りの音がよく聴こえるようになったというか……視野が広がったっていうのかな。ミナと一緒にいるとさ、なんか、自分も変われる気がするんだよね。不思議だけど」
その言葉を聞いて、ほのかは静かに微笑んだ。
「……うん。私も、そう思った。性格もそうだけど……奏の音が、全然違う。根っこの部分は同じなのに、すごく変わったよ。変わったのに、ちゃんと奏の音だった」
あの音を――久しぶりに隣で聴いたとき。ほのかは、思わず息を呑んでしまった。
昔の奏の音は鋭くて華やかで、誰よりも眩しくて。でもそのぶん孤独で、誰の音も寄せつけないような響きをしていた。誰よりも上手いという才能が、奏をひとりぼっちにしていたように思えた。
でも――今の奏の音は、違った。
伸びやかで、自由で、誰かの隣に寄り添うような響きがあった。華やかさは残っているのに、どこか柔らかい。きっとそれは、ひとりで吹く音じゃなくて、誰かと並んで吹く音だから。
どうしてそんな音を出せるようになったのか――それを演奏中に、気づいてしまった。奏が、隣で一生懸命に吹いている美奈ちゃんのことを、あんなにも穏やかに、優しく見つめていたから。
ああ、そうか。奏は、美奈ちゃんのために吹き方を変えたんだ。寄り添って、導いて、一緒に進んでいくための音。それはただ上手くなるとか、技術が伸びたとか、そういう話じゃない。
誰かと一緒に音を奏でるって、こういうことなんだ――ほのかは、そう思った。
――奏。あなたの音はもう、ひとりじゃないんだね。
「……ほのかがそう言ってくれるなら、安心だ。私、吹部を辞めてから、ずっと合奏が嫌で……。自分の音は周りに合わないって、思ってたんだけど」
奏は言いながら、背負ったままの楽器ケースの肩紐を指でなぞった。自分に言い聞かせるみたいに、ゆっくりと。
「周りの音、もっとちゃんと聞くようにしたら……多少、なんとかなってる気がするよ。中学まではさ、自分しか見えてなかったから」
奏はそう言って、夜空を見上げた。迷いのない、真っ直ぐな声だった。その言葉に、ほのかは静かに頷いた。
「……今の奏なら、合奏も余裕だよ。中学の頃も……別に奏が思うほど、溶け込めていなくはなかったと思うんだけどね」
ほのかは足を投げ出して、ローファーのつま先を上下に揺らす。奏は昔から、自分の音に自信があって、でもそれを「誰かと重ねる」ことには不器用で。孤高のまま、独りで吹き続けていた。あの鋭い音は憧れでもあり、怖さでもあった。
でもきっと――あの音こそが、奏の心の叫びだったんだ。ほのかは今なら、あの頃の奏のことを少しだけ分かる気がする。
「……そんなことないでしょ。私、部活で超嫌われてたみたいだしね」
ふっと息を吐き、奏が苦笑するように言う。
「でもまあ……あの頃があったおかげで、今、こうしていられる訳だから。別に、悪いことばっかじゃなかったよ」
その横顔は、もう過去なんて見ていなかった。真っ直ぐに、迷いなく、前を向いていた。
奏はもう、自分で未来を選べる人になったんだ。私があのとき守れなかった背中は、もう誰かに守られることを必要としていない。今は、隣に並んで歩いてくれる人がいて、その人のために音を奏でている。もう、私が背中を押してやる必要なんて、ない。
だって、奏にはもう、美奈ちゃんという隣がいるんだから。
「……奏は逞しいなあ」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも少し驚く。だけど、その想いは嘘じゃなかった。心から出た、本当の気持ちだった。
ほのかは照れ隠しのように、奏の背中を軽く叩く。小気味よい音が、しんとした夜の静けさを切り裂いた。
「何すんのさ」
振り返る奏に、ほのかは笑って肩をすくめる。
「さ、そろそろ帰ろうか。奏、今日はちゃんと寝てね。明日は美奈ちゃんのために、学校行かなきゃでしょ?」
ほのかはベンチから立ち上がり、楽器ケースを手に取った。少し古びた持ち手の感触が、掌にしっくりと馴染む。その重さと温かさが、自分の過ごしてきた時間そのもののように感じられた。
空を見上げると、冬の気配を帯びた冷たい夜風が頬を撫でていく。でも不思議と、寒くはなかった。
――奏。あなたと過ごした日々は、私の宝物だよ。何もかもが不器用だった私たちの、たったひとつの、輝く季節。でも今、あなたが美奈ちゃんと紡いでいる音も、きっと同じくらい……ううん、それ以上に大切で、尊いものなんだろう。
一度だけまぶたを閉じて、楽器ケースの持ち手を握り直す。私自身を確かめるため、そして、昔の自分を忘れないように。
あの頃、守れなかった背中。差し出せなかった手。届かなかった音。私は今でも、その痛みを抱えながら、吹いている。これからもきっと、それを背負って生きていくんだと思う。
それでもいい。あの時の私が、無駄じゃなかったと思えるように。
この銀色の楽器は、たぶん、今でもあの頃の私を覚えている。奏の隣で、ただただ一生懸命に吹いていた、八方美人で不器用な私を。忘れたくない。忘れちゃいけない。だから私は――これからも、この銀色の楽器を吹き続けていくんだと思う。




