第十八話 過去の音色(2)
「美奈ちゃん、本当いい子だよね……」
電車が動き出して美奈の姿が見えなくなったタイミングで、ほのかはぽつりと呟く。まるで、自分に言い聞かせるように。そして視線を奏に向けながら、少し冗談めかして笑った。
「ところで奏。学校サボってるって、本当なの?」
その瞬間、奏はばつが悪そうに頬を掻いて、視線を逸らした。
「……中学のサボり癖が抜けなくて。結構やばいかも」
その言葉に、ほのかは思わず「もう!」と声を上げかけて、口を閉じた。ほんとにもう。大人になったかと思ったら、根っこのところは全然変わらないんだから――。高校に行っても、相変わらず自由奔放。気まぐれで、我が道を行って、誰の顔色にも左右されない。でも、そんなところが……正直、少しだけ羨ましい。
私にはできない。昔からずっと、そうだった。
誰かの期待を裏切るのが怖くて、決められた枠からはみ出すのが不安で。「ちゃんとしてなきゃ」「期待に応えなきゃ」なんて、そればっかり考えていた。いつだって自分の「好き」より、「正しい」を優先してしまう。
だからこそ、奏のそういう真っ直ぐさが、いつも眩しく見えた。不器用なくらいに真っ直ぐで、怖いくらいに正直で。
――私は、あんなふうにはなれなかった。追いかける勇気さえ、持てなかった。
「ほのかこそ、高校の吹部に飽き足らず、市民楽団もやってるとか……。昔から部活馬鹿だとは思ってたけど、トランペット馬鹿すぎない?」
呆れたように笑う奏に、ほのかは少しだけ胸を張って、言い返す。
「それは……勉強はちゃんとやってるし、別にいいでしょ? 市民楽団は息抜きだから。それに、トランペット馬鹿の奏に言われたくない」
一瞬だけ言葉を切ってから、ほんの少し声を落として続けた。
「……それに、そうでもしないと、自分がちゃんと頑張れてる気がしなくなるから。家でも学校でも、完璧にやれるわけじゃないし……せめて、トランペットくらいはって、思ってるだけ」
トランペットは、たぶん私の中で、唯一ずっと続けてきたものだから。あの頃、奏と一緒に吹いていた記憶が、今でもどこかで私を支えている。だからやめられないし、やめたくない。たとえ、奏が隣にいなくても。
「何それ、相変わらず真面目すぎ。……でも、らしいかもね」
奏がくすっと笑って、首を傾げる。その声音に、棘はなかった。視線が重なって、ふたりでふっと笑い合う。
ああ、なんだか懐かしい。この空気。この距離感。中学生の頃、よくこんなふうに並んで帰った。くだらないことで笑い合って、どこまでも一緒にいける気がしてた。明日もまた、同じように過ごせると信じていた。
――でも私は、あのとき奏を守らなかった。
誰にでもいい顔をして、当たり障りのない方を選んで。本当は、奏のことを一番大切に思っていたはずなのに。それを、ちゃんと行動にできなかった。勇気がなかった。だから今も、こうして楽器を吹き続けているのかもしれない。
駅に着いて、ふたりで並んで改札を抜ける。奏の背中で揺れるトランペットケースに、ふと目が止まった。
あのケースも、中の楽器も、もう私のものとはお揃いじゃない。あの頃、ふたりで並んで持っていた色違いの楽器とは、別のものだ。それなのに、揺れる金属音だけが、過去の記憶を静かに呼び起こしてくる。
奏と再会できたあの夕方のことを、今でも時々思い出す。改札機の向こう、私だけがその場に取り残されたまま、金色のベルが遠ざかっていくのを見ていた。
声を振り絞って、名前を叫ぶこともできなかった。バーを破って、足を踏み出す勇気もなかった。ただ黙って、あの背中を見送るしかできなかった。
今はこうして、並んで歩けているのに。それでもあの時の背中は、どうしても届かないまま、時間の向こうに滲んでいる。
――奏は、もうとっくに手放してるんだ、あの頃のすべてを。
ほのかとお揃いだったトランペット。あの金色の楽器は、奏の過去そのものだった。だけど、今――その金色は、美奈の手の中にある。かつてふたりで選んだ大切な楽器が、今は別の誰かの未来のために、音を響かせている。
初めて会ったとき、美奈ちゃんがあのトランペットのことを話してくれた。「この楽器も、カナデの」と教えてくれた。その声は、どこか震えていた。まるで――大切なものを預かってしまったと、怯えているかのように。わたしなんかが持っていて、いいのかな――その想いが、透けて見えた。
そのときの泣きそうな瞳が、今でもまぶたの裏に残っている。不安そうで、戸惑っていて、それでもどこか、手放したくなさそうで。
ああ、この子はちゃんと分かっているんだと思った。
自分が今、何を持っているのか。この楽器が、誰と誰の記憶を繋いでいるのか。それをすべて理解した上で、きちんと傷に向き合おうとしていた。
私はその姿に、言葉が出なかった。ただ喉元がぐっと詰まるのを、どうすることもできなかった。
そうだよ。私はもう、そんなことを言う立場じゃない。奏にあんな思いをさせて、何もできなかった私が――今更、何を望めるっていうの。
あの金色はもう、過去の象徴なんかじゃない。美奈ちゃんと奏が並んで吹くための、今の音。未来に繋がる音だ。
そんなことを思いながら、ほのかは無意識に、楽器ケースの持ち手をきゅっと握り直していた。まるで、自分の場所を確かめるように。
「……奏!」
先頭を歩いていた奏の背中に、ほのかは思わず声をかけていた。その声は、自分でも気づかないほど小さくて、でも少しだけ、震えていたかもしれない。
「……時間大丈夫だったらさ、ちょっと話していかない?」
振り返った奏は、昔と同じように口角を上げた。でも、今のその笑顔はもう――私の隣じゃなくて、美奈ちゃんの隣で咲いている。懐かしくて、ちょっとだけ、息が詰まりそうだった。
もう遅い時間だったので、ふたりは駅前のロータリー脇にあるベンチへ腰を下ろした。近くのコンビニの光が、奏の髪を淡く照らしている。
「こうやってほのかとふたりで話すの、すごい久しぶりな気がするね」
奏はそう言って、脚を伸ばしながら背中を軽く反らせた。その動きは昔と変わらないのに、声のトーンが少しだけ違って聞こえた。柔らかくて、余裕があって、どこか大人びていて――けれどその奥に、変わらない真っ直ぐさと不器用さがちゃんと残っていて。
ちょっと変わったけれど、やっぱり奏は、奏のままだ。でも今の奏は、もう誰かのために笑える人になっている。
そんなことを思っていると、ふいに奏の携帯が震えた。ほのかが思わずびくりと肩を揺らすと、奏は画面を見てから、ふわりと口元を緩める。
「……ミナったら、寝坊しないでねって念を押してきたよ。これは……明日は頑張って起きなきゃだなー」
そう言って、奏はくすくす笑いながら携帯をしまい、夜空に向かって大きく伸びをする。空は白く霞んでいて、星はひとつも見えなかった。でもその伸びの仕草は、どこか気持ちよさそうで、肩の力が抜けていて。隣でそんな奏を眺めながら、ほのかは自然と声を零していた。




