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第十八話 過去の音色(1)

「美奈ちー、今日めっちゃ吹けてたじゃん! 練習頑張ったねー!」


 日曜日の練習後、コミュニティセンターの音楽室に、明るい声が響き渡った。柚希がにこやかに近寄ってくると、美奈は楽器を片づけていた手を止めて振り返る。一瞬だけきょとんとした後、花がほころぶように微笑んだ。


「……本当ですか? 良かったあ。カナデが、ずっと練習付き合ってくれたんです……」


 美奈が照れくさそうに零したその言葉に、柚希が「奏っちって、マジで師匠やってんだ!」と豪快に笑う。


「びっくりしたよー。美奈ちーったら、もう余裕じゃん! それにしても、奏っち……ヤバいね。本当に、将来は先生になれるんじゃなーい?」


 そんな賑やかなやり取りを、ほのかは少し離れた場所から見つめていた。ふたりの笑い声が耳に届くたび、無意識に息を整える。


――美奈ちゃん、すっかりこの楽団に馴染んでくれて、良かったな。


 初めてここに来た日、緊張でこわばっていたあの表情が、嘘のようだった。楽器を握る手もぎこちなくて、声だって小さくて、今にも泣き出しそうに見えた子が――今はもう、ちゃんと輪の中で笑っている。


 心の中が、じんわりと温かくなる。その一方で胸の端だけが、きゅっと細く締まる。


――私は、彼女をまた巻き込んでしまった。奏を吹奏楽に呼び戻したいなんて、私のわがままで。勝手で、ずるくて、無責任で……そんな話に、美奈ちゃんは迷いを抱えたままでも手を伸ばしてくれた。たぶん、私の思いは全部分かった上で。自分だって怖くて泣きそうなのに、それでも奏の背中を強く押してくれたあの姿は、私の目にしっかり焼きついている。


 春日美奈は、強い。芯が強くて、真っ直ぐで――そんなところはまるで、昔の奏を見ているみたいだった。そして、きっとあの子は……私なんかよりずっと素直に、奏と向き合える子なんだと思う。


 思い返す。初めて会った日、彼女はずっと目を伏せていて、見るからに大人しそうな印象だった。けれど――奏の名前を出した途端、柔らかな瞳の奥がぐっと鋭く、真剣に私を捉えてきたのを覚えている。


 あの目を見た瞬間に、すぐに分かった。この子は、奏を大切に想っている。どんな言葉よりも、その瞳がすべてを物語っていた。


 真っ直ぐで、迷いがなくて。かっこいい子だなと思った。見た目はふんわりしていて可愛いけれど、性格はちょっとだけ、奏に似ている。でもたぶん、奏よりずっと怖がりで、柔らかくて、自分を犠牲にしてでも誰かのために動ける、そんな子。


 つい小さく微笑みながら、ほのかはトランペットケースの金具をそっと閉じる。心のどこかが、じんと痛んでいた。けれどその痛みさえ、なんだか優しくて。またひとつ、彼女に感謝を伝えたいことが増えた気がしていた。


 私が中学生だったころ――あんなふうに、ちゃんと奏と向き合えていただろうか。


 いや、向き合っていた「つもり」だっただけ。誰よりも奏の近くにいた。隣にいた。いつも一緒に吹いていた。だけど――私は、何ひとつ分かっていなかった。奏の孤独も、苦しさも、あの音の意味も。何も知らないまま、ただ「そばにいる」ことに甘えていた。


 守りたかったはずなのに、その方法さえ分からなかった。


 もしも、美奈ちゃんがあのときの私の立場だったら――きっと彼女は迷わず、奏の手を取っただろう。誰に何を言われたって、揺らがずに奏の側に立ってくれたはずだ。


 中学生の頃の記憶が、ふいに耳の奥でざわつく。コンクールの後『ほのか先輩のソロ、素敵でした! さすが部長です!』と、きらきらした目で私を見ていた後輩たち。私は何も言えなくて、ただ、曖昧に笑って誤魔化した。


 本当は、奏が吹くべきだったのに。


 私は最初から正しそうな言葉を並べて、自分を納得させようとした。一番上手い人が吹くべきだ――そう言えば、きっと誰も傷つけずに済むと思っていた。でも本当は、その言葉で一番傷つくのが奏だって、分かっていた。


『ソロはほのかが吹いた方が、いいと思うよ』


 その声を聞いたときの痛みは、今でも心の内に居座っている。私はあのとき、奏をひとりにしたんだ。手を伸ばすことも、支えることもできずに。結局、私は「部長」としてしか彼女を見られていなかった。周りの空気に流されて、綺麗事に逃げて――奏の気持ちには、何ひとつ応えられなかった。


 練習場所を出て、バスの後部座席に三人で並んで腰を下ろす。窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めながら、ほのかはそっと隣に視線を送った。


――奏は、変わったな。


 昔の奏は、まるで鋭い刃みたいだった。いつもぴんと張り詰めていて、誰にも近寄らせない雰囲気を纏っていた。正しくて、強くて、でもどこか孤独で。それが、どうしようもなくかっこよくて。あの頃の奏が放っていた音は、まるでひとりで戦っているような響きだった。


 でも、今は違う。


 美奈ちゃんの隣にいる奏は、あたたかくて、柔らかくて。あの笑顔は、きっと誰にでも向けられるものじゃない。心を許している人にしか、見せない表情だ。


 奏とまた並んで歩けていることが、嬉しい。でも、それは「昔の続き」なんかじゃない。もう、あの頃の場所には戻れないということなんだろう。


 奏はもう、私が知っていた奏じゃない。あの頃の彼女は、私の過去の中にしかいない。


 駅前でバスを降り、そのまま三人でホームへ向かった。電車に乗り込んでからも、美奈と奏は並んで立ち、肩を寄せ合うようにして楽しげに話していた。ひそひそ声じゃないのに、不思議とふたりだけの世界の中にいるような空気だった。ほのかは隣に立って時折相槌を打ちながら、その様子をなんとなく眺めていた。


 美奈の最寄り駅は、奏とほのかの下車駅のひとつ手前だった。そろそろ到着が近づいてくると、美奈が小さく唇を尖らせて、名残惜しそうに呟いた。


「もう少し一緒にいたいな……。なんてね……」


 まぶたを伏せて照れるように言うその横顔を、奏がふっと笑って、指先でつんと突く。触れ方が優しくて、自然で――互いに信じ合っている人同士の、さりげない触れ合いだった。


「ミナ、明日も会えるって。そんな顔しないでよ」


「だって、カナデ……。最近、昼休み全然いないんだもん。学校、サボりすぎじゃない……?」


「それは……まだ夏休み気分が抜けてないのかも。分かったよ、明日はちゃんと起きるから。起きられなくても、放課後は一緒に練習しよう?」


「カナデったら……今何月だと思ってるの? まったくもう……」


 美奈は呆れたように眉を寄せながらも、口元には穏やかな笑みを浮かべていた。怒っているようで、どこか楽しげで――まるで、小さなわがままを受け止めてもらえることを知っているような、そんな可愛い甘え方。その笑顔に、奏も困ったように頭を掻きながら、どこか嬉しそうに目を細めていた。


 ふたりの言葉のひとつひとつが、波紋のようにほのかの胸に広がっていく。冗談みたいなやり取りのなかに、確かな絆が滲んでいて。このふたりは、ちゃんと信じ合っている。言葉よりも、空気がそう語っている気がした。


 ふいに、美奈がこちらを向いて言った。


「わたしも頑張って登校するから、明日、待ってるね。じゃあ、ほのかちゃん。……カナデ、すっごくサボってて学校に全然来ないんだから……叱っておいてくれるとうれしいな」


 思いがけず名前を呼ばれて、ほのかは一瞬驚いたのち、慌てて頷く。ふんわりと笑う美奈の瞳が優しくこちらを見ていて、その眼差しに、思わず笑みが零れる。


――こんなふうに、ちゃんと見てくれる子なんだ。奏が心を開くのも、分かる気がする。


 やがて電車が駅に滑り込むと、美奈は軽やかに背中を向け、ドアが開くと同時に振り返った。くるりと踵を返して、まるで舞うようにホームへ降り立ち、扉が閉まるその瞬間まで、笑顔で手を振り続けていた。奏も、ほんの少し照れくさそうにしながら、控えめに手を振り返していた。


――なんだろう、この気持ち。嬉しくて、ほっとして、それでいて少しだけ奥歯を噛みしめたくなる。あの笑顔のふたりは、きっとこれからも大丈夫だと思えるのに。なのに、どうしてだろう。少しだけ、足元が浮くような気がした。


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