第十七話 それぞれの居場所(5)
夕食は、カナデが注文してくれたピザを二人で囲んだ。向かい合ってテーブルに並んで座るだけで、なんだか胸がくすぐったくなる。頬にあたる照明の温かさも、鼻をくすぐる焼きたてのチーズの香りも、全部がどこか現実味を欠いているようで――夢みたいだった。
……もし、こんな時間が毎日続いたら。ただいまと言って、テーブルに向かい合って座って、二人で夕飯を食べて。そんな未来が本当にあったとしたら――きっと、それだけで、わたしは十分幸せなんだろうな。なんて……。つい頼みすぎてしまったピザにお腹を少し気にしながら、わたしは背もたれに身を預ける。すると、キッチンで片付けをしていたカナデが、ふいに声をかけてきた。
「ミナ、お風呂……先に入る?」
何気ない言葉なのに、心臓がきゅっと縮む。何てことのない一言なのに、わたしの中でだけ大きな波紋が広がっているようだった。
「ううん……カナデ、先入って来ていいよ」
「そう? じゃあ先入ろうかな。ミナはそのままリビングにいてもいいし、私の部屋にいても大丈夫だよ」
その言葉に、思わず反応してしまう。カナデの部屋――。聞いた瞬間に、胸の奥がふわりと浮き上がるようだった。「部屋に行きたい」と申し出ると、カナデは「そんな楽しいもんじゃないけど……」と困ったように笑っていた。カナデに連れられて、階段を上って二階に行く。廊下には幾つかの扉が並び、一番奥がカナデの部屋だった。
「隣は兄貴の部屋。その向かいは倉庫になってるけど……兄貴が防音室を入れようとしているらしいよ。買ったらさ、家に練習しに来なよ」
カナデは機嫌良さそうに廊下を歩き、自分の部屋の扉を開ける。電灯のスイッチを押すと、部屋が鮮やかに照らされた。イメージ通り、シンプルで綺麗な部屋だった。青と黒を基調としたインテリアで、余計なものが少ない。窓際に置かれた勉強机には、沢山の参考書が並んでいる。近くに寄って見てみると、かなり使い込まれているようで、カナデの努力の痕が残っていた。勉強の痕跡が何もない、わたしの机とは大違いだ。
「ほらね、そんなに面白くないでしょ?」
パイプのベッドに腰を下ろしたカナデが、照れ隠しのように言った。そのベッドで毎晩寝ているんだと思っただけで、また胸が騒いだ。わたしはなるべく自然な顔で笑って、部屋をぐるりと見て回る。
「じゃあ、私は先にお風呂に入ってくるけど……」
気が付けば、着替えを持ったカナデが部屋のドアノブに手をかけていた。そして、ふと振り返って、少し悪戯っぽい目を向ける。
「……ミナも一緒に入る?」
「えっ! な、何言ってるの? 行ってらっしゃい!」
思わず声がうわずった。目が合って、一瞬固まって、それから慌てて手を振る。カナデは笑いながら手をひらひらさせて、廊下へ出ていった。何それ、冗談だよね。いつもみたいにからかってるだけ……だよね? 本気だとしても、ピザのせいで今のわたしは到底見せられる身体ではないし、そもそも一緒にとか……。でも、“ありえなくはない”と、一瞬だけ思ってしまった。
わたしは部屋の真ん中で立ち尽くしたまま、息を吐いた。暴れる心臓を落ち着かせるように、深呼吸を繰り返す。今ここにあるすべてが、カナデそのもののように感じられて――どうしようもなく、愛おしい。勉強机に手を置いて、指でなぞってみる。ここでカナデが勉強をしているのかと思うと、ただの机さえわたしの胸を無性に締め付けた。机の横にあるラックには、トランペット用の教本や楽譜が山のように並んでいて、その横には見慣れた楽器ケースが床に置かれている。この部屋にあるものが、カナデを形作っている。一つひとつを目で追うたびに、わたしの心臓は、小さく、小さく、震え続けていた。
そして視線が、ベッドで止まる。別に、変な意味じゃない。ないけれど。辺りを見回して、そっと腰を下ろしてみる。カナデのぬくもりを想像して、思わず背中を丸めて布団の上に倒れ込んだ。寝返りを打つふりをして、枕に頬をすり寄せる。カナデの香りがするかもしれないと思ったけれど、香りなんて分からなかった。ただ心臓の音が、やけに大きく響いていた。そんなことをしているうちに――階段を上ってくる足音に慌てて飛び起き、姿勢を正す。髪を整えて、表情を整えて、演技みたいに笑顔をつくる。
……大丈夫、ばれてない。そう思いたかった。こんな姿を見られたら、引かれる上に絶交されてしまうだろう。
「お待たせ。入ってきて大丈夫だよ」
タオルで濡れた髪を拭きながら、カナデが覗き込む。その姿を見た瞬間、わたしの胸はまた、音を立てて弾けそうになった。平然な顔をしてありがとうと笑いかけたけれど、お風呂ではカナデの残り湯に謎にどきどきしてしまい、自責の念に駆られていた。