第十七話 それぞれの居場所(4)
「ただいま~。美奈ちゃんが泊まりにくるって言うから、一旦帰ってきたぞー」
明るく響く声に続いて、カナデが苛立ちを隠さず舌打ちをする。ばたばたと玄関へ向かって走り去っていき、その直後――カナデのお兄さんの、軽い悲鳴が響いた。
「……いつも大学から直接バイト行ってんじゃん。何で帰ってくるわけ?」
「えー、そんなこと言うなよ。お兄ちゃんも久しぶりに美奈ちゃんに会いたくてさー」
「は? ほんとキモい……ミナに変なこと言ったら、承知しないから」
リビングの扉が開き、苦笑を浮かべたお兄さんと、あからさまに不機嫌そうなカナデが戻って来る。やあやあと手を挙げて挨拶をするお兄さんに、立ち上がってお辞儀をした。
「美奈ちゃん、いっつもうちの奏が悪いね。こないだも吹奏楽やりに行ったって聞いたけど……奏、大丈夫だった?」
「は、はい……。カナデにたくさん、助けてもらってしまって……」
「ええ? この奏が? いやいや、美奈ちゃんには迷惑ばっかりかけてるでしょ。ごめんね」
軽口を叩くお兄さんの脛に、カナデが容赦なく蹴りを入れる。わたしが唖然としているその前で、お兄さんは驚く様子もなく笑っていた。なんだろう、この空気。お兄さんは――カナデの全部を知っていて、全部を受け止めているみたいだった。わたしにはまだ、カナデは……あんなふうに、まるごと感情を包み隠さず、ぶつかってくれてはいないだろう。だからちょっとだけ、お兄さんのことが羨ましかった。
「……いいから、早くバイト行け」
「言われなくても行きますよー。ところで奏、お前料理できないけど……晩御飯はどうすんだ?」
「ウザ……。母さんから一万円貰ってる」
一万円札をひらひらさせるカナデに、思わず「えっ」と声が漏れそうになった。やっぱり、わたしの家とは感覚が違う。そして、そんなカナデの“庶民離れした日常”に、少しだけ距離を感じてしまう自分がいた。それに……カナデって料理できないんだ。何でも得意そうなイメージがあったから、意外だなあなんて思ってしまう。
「そうか、じゃあそれでピザでも頼んで食べときな。お兄ちゃんからはデザート代として、これをあげよう」
お兄さんは財布から見せつけるように五千円札を取り出し、カナデに渡す。やっぱり松波家の金銭感覚は、わたしの家とは違うようだった。わたしの家族は、そんなに簡単にお小遣いをくれたりしない。
「……ありがと。じゃあさっさとバイトに行って」
そっぽを向いたカナデの横顔が、わたしにはとても――可愛く見えた。ぶっきらぼうで、素直になれなくて、でも全部が顔に出てしまう。カナデのこんな姿を引き出せるのは、きっと家族だけで。
……わたしは、いつかそこまでたどり着けるのかな。
「はいはい。じゃあ美奈ちゃん、奏のことよろしくね。ちゃんと戸締りするんだよ。不審者が入ってきたら、すぐに逃げて通報すること!」
「うっさいなあ……分かったから早く行け!」
盛大な舌打ちと共にリビングからお兄さんを放り出し、カナデは扉を閉める。呼吸を落ち着かせ、笑顔を作ってわたしを見た。
「兄貴がごめん……。ミナ、なんか変な顔してない?」
「えっ。いやいや。そんなことないよ。わたしもカナデに……そんな扱いをされてみたいなあって、思っただけ」
冗談っぽく言った一言に、カナデの頬がふっと染まった。ぱちぱちと瞬きをして、カナデは呆れたように息を吐く。
「ミナったら……バカじゃないの」
むくれるように言いながら、でもその顔はどこか恥ずかしそうで。普段あまり見られないその表情が、たまらなく可愛くて――ああ、本当カナデって、ずるいなあ。その照れた顔も、優しい声も、全てが――わたしの好きを、更新していく。
「……やっぱりカナデって、かわいい」
ふいに呟くと、カナデが目を細めてわたしを見ていた。そんな仕草さえ愛おしくて、わたしはつい肩を震わせた。