第十七話 それぞれの居場所(3)
「カナデ、今はもう……お兄さんと、比べてないの?」
「うーん……どうだろうね……」
カナデはわずかに視線を逸らし、リビングの壁に目をやる。そこには、額縁に入った一枚の写真。中学の制服を着たカナデと、県内トップ高の制服を着たお兄さん。並んで写るふたり――カナデは変わらずのショートカットに、仏頂面。対してお兄さんは、にこやかにピースをしていた。
わたしもつられて、その写真を見つめる。なんだか不思議だ。今のカナデより幼いのに、目つきはずっと鋭くて、その姿はどこか突っ張って見えた。
「中学行かなくなったくらいから、比べないようにしてる。してるつもりなんだけど……」
一度そこで言葉を切って、カナデは小さく笑った。
「でもさ、何かを決めるたび、進もうとするたびに、ふと兄貴の顔が浮かぶんだよね。結局……まだどこかで、兄貴の背中を追ってるのかもしれない」
そんな言葉を聞いたあとで、もう一度写真の中のカナデを見る。目が合った瞬間、ふと口をついて出た。
「……中学生のカナデ、かわいいね」
「やめてよ。あの頃は反抗期真っ盛りで、生意気だったから……。何にでも噛みつくし、全部に勝ちたがって。でも、勝てなかった。結局、何やっても兄貴の背中が遠くてさ」
カナデの声が、かすかに震えた。冗談めかした口調の裏に、痛みが見え隠れする。
「中学、行かなくなったのも……きっかけは色々あったけど、多分どこかで、自分に絶望してたんだと思う。何でもできて、人当たりもいい……そんな兄貴みたいには、どう頑張ってもなれなくて。それでも認めたくなくて、でも苦しくて。どうしたらいいか分からなくて……逃げたのかも」
俯いたカナデの目元を、髪の毛が隠す。ぐっと口元を引き締めて、カナデは自嘲するように一度笑った。
「でも、トランペットだけは手放せなかった。小さい頃、兄貴が吹いてるのを見て……あの音が悔しくて、でも綺麗で、絶対負けたくなくて。これだけは、何かを自分の手で掴める気がして。だから、必死だった。勝ちたくて、認められたくて、それだけで吹いてたな」
その言葉に、わたしの心がぎゅっと締めつけられる。わたしの知っているカナデは、強くて、格好よくて、迷いがなくて。でもその奥には、こんなにも傷ついて、もがいてきた過去がある。
誰よりも優秀な兄の影で、息をひそめながら、それでも諦めきれずに足掻いていた女の子。
「今思えば、あの頃の私はさ……音楽じゃなくて……何を吹いていたんだろうね」
ぽつりと零れたその言葉に、鼓動が跳ねた。
「兄貴には絶対負けないって、泣きながら吹いてた。トランペットが好きだったのか、勝ちたいだけだったのか……もう分からなかった。音を出してないと、自分が崩れそうで。止まったら、負けた気がして……」
呟くカナデの横顔に、遠い記憶を辿るような陰が落ちた。そんな気持ちで、カナデはずっと、ひとりで戦ってきたんだ。わたしが息を止めていると、カナデはふっと笑い、遠くを見るように上を向く。
「でも、部活を辞めて、高校生になって、ミナと出会って……少しずつ、変わったんだと思う。きっと、ミナがいたから。ミナが、私の音を聴いてくれたから。初めて自分を許せるようになった気がしたよ」
――もう、何も言えなかった。わたしなんかが、カナデの救いになれていたのだとしたら。こんなにも痛みに満ちた心を、少しでも軽くできていたのだとしたら。
「……もし、中学の頃にミナに会えてたら。私は、変われてたのかな」
その言葉は静かで、やけに切なかった。わたしも、もっと早く出会いたかったなんて――わがままだとは思うけど、それでも、そう願わずにはいられなかった。
「……こないだ、ほのかちゃんが言ってたよ。昔のカナデ、ピリピリしてたって。でも今は、丸くなったって」
「うわ、ほのか、余計なことを……。でも、間違ってないかもね」
照れ隠しのようにカナデは頭を掻く。
「昔の私は、本当にどうしようもなかった。周りの音なんて、聞いてなかった。ただ自分だけの音を、ひたすら、誰にも邪魔されたくなくて吹いていた。合わせる気なんて、なかった。……でもさ、今は違う。誰かと一緒に、音を出したいって思えるよ。ミナのおかげだ」
その言葉があまりにも優しくて、強かった。そして、わたしの胸の奥まで――真っ直ぐ届いた。
「まあ、丸くなったって言われても……未だにクラスでは、怖がられてるみたいだけどね。不良の松波だし」
カナデが冗談めかして肩をすくめ、軽く息を吐く。続けて、ぐっと両腕を伸ばして伸びをする。その仕草がふっと無防備に見えて、思わず頬が緩んだ。
わたしにとってのカナデは、怖がられるような存在じゃない。こんなにも表情豊かで、気さくで、そして――弱さを見せてくれるような女の子なのに。
当初、日菜子がカナデを「クールでかっこいい」と言っていたことを思い出す。見た目だけなら、確かにそうかもしれない。だけど、わたしは知っている。カナデがかっこよさの裏に隠したままの、繊細な心を。
「……カナデは、他に友達がほしいなとか……思う?」
「いやー、別に。だってミナがいるもん。他の人は……まあ、汐見さんとか轟さんも仲良くしてくれるけど。ミナがいれば、十分だよ」
その一言があまりにもさらりとしていて――心に刺さった。
わたしだけで、十分。その言葉で、わたしの背中に熱が走る。嬉しさと、切なさと、独占欲と、全部が混ざり合って。わたしだけのカナデでいてほしい――そんな気持ちが、わたしの中で疼いた。
ちょうどそのとき、玄関の鍵が回る音がして――カナデの身体が、ぴたりと硬直する。




