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第二話 響きあう放課後(3)

***


「ああ、奏ちゃんお疲れ様。ちゃんと練習できた?」


 受付に戻ると先ほどの年配の男性が、カウンターの向こうから親しげに声をかけてきた。カナデは「まあね」と気の抜けた声で笑いながら、伝票を差し出す。


「今日は奏ちゃんが友達を連れてきてくれたから、サービスで半額にしとくよ」


「えっ、ほんとに? 店長、ありがとう」


「あ、ありがとうございます……」


 店長と呼ばれたその男性がレジを操作すると、表示された金額は予定の半額……よりも安い気がする。驚きながらも、その親しげなやりとりに、胸の奥がきゅっと音を立てた。


 カナデが、こんなふうに馴染んでいる場所。わたしが知らない場所。それは――わたしが、知らない時間。


「それにしても、奏ちゃんが友達連れてくるのなんて久々だね、中学の時は、よく来ていたじゃない。誰だっけ、あの子……」


「……ああ、ほのかね」


 カナデが言葉を挟んだ瞬間、空気が静かに凪いだ。さっきまであんなに軽やかだった声が、少しだけ沈んだように聞こえた。目線を落とすその表情は、どこか触れてはいけないものに似ていて――わたしの胸が、知らぬ間に強く締めつけられていた。


 『ほのか』という名前。わたしの知らない、人の名前。その名前には、きっとわたしの知らない過去が詰まっている。


「そう、ほのかちゃん。今どうしてるの?」


「さあ……東高で吹部でもやってるんじゃないかな。私は私で、淡々とやるよ。今は、この子の先生やってるけど」


 そう言って、カナデは唐突にわたしの肩を軽く抱いた。その瞬間、びくりと身体が跳ねる。その仕草に悪意はないとわかっていても、わたしの心は少し追いつけない。何かの影が、その言葉の中に見え隠れしていた。店長はそれ以上何も触れず、代わりに「また来てね」とにこやかに笑って、クーポンを何枚も渡してくれた。


 自動ドアが開くと、夜の街のざわめきが押し寄せてくる。夕方の気配はもうどこにもなく、世界はすっかり夜の色に染まっていた。居酒屋のネオンが明滅し、通りには笑い声と焼き鳥の匂いが漂っていた。


 わたしの手には、カナデから託されたトランペットケース。両手にずしりと掛かるその重みが、さっきよりも、少しだけ温かく感じられていた。


 駅へと向かう足取りの途中で、カナデがふと立ち止まる。わたしの動きも、自然と止まった。


「……ミナ、お腹減らない? ポテト食べに行こうよ。今日からLサイズ、安いんだって」


 そう言って振り向いたカナデの横顔は、街のネオンに照らされてぼんやりと揺れていた。さっきまでの笑顔とは、少し違う。明るいのに、どこか無理をしているような――そんな気配が、微かに滲んでいた。


「い……行く。行ってみたい……!」


 そう返したわたしの声は、少しだけ裏返っていた。けれど、それは本音だった。


「……学校帰りにファーストフード店に寄り道するの、憧れだったんだ。なんか、高校生っぽくて……」


 目を伏せて言うと、カナデがふっと息を漏らして笑った。


「何その憧れ。ミナってなんか、かわいいね」


 その言葉にわたしは一瞬だけ照れて、そして――ほっと胸を撫でおろした。さっきまでの影が、少しだけ後ろに引いたように思えた。


 繁華街の中を歩きながら、わたしたちの足音が静かに重なっていく。わたしのローファーと、カナデのスニーカー。違う音が、同じ歩幅で並んでいる。


 隣を歩くカナデの横顔を、わたしは気づけば見つめていた。真っ直ぐに伸びた鼻筋。涼しい目元。揺れる短髪。冷えた夜の空気に、長いまつげが凛として見えた。


 ネオンがまたたくたびに、その顔が、ゆらりと色を変える。さっきまで見えた影でさえ、今は光の中に紛れて見えなくなっていた。


 ……カナデって、やっぱり、きれいだ。まぶしいだけじゃない、何か痛いほどに――きれいなんだ。


 見惚れていると、視線に気づいたカナデが振り返る。


「ミナ、どうしたの?」


 カナデが笑って言ったその一言に、心臓が跳ねた。言葉が出てこなくて、わたしはあたふたと顔を背ける。


「なっ……なんでもない……!」


 その瞬間、視線をそらすのが惜しいと思った。


 カナデは、クラスの誰とも違う。自由で、真っ直ぐで、でも時々ちょっとだけ不器用で。その全部に――わたしの心は、どうしようもなく惹かれていく。もっと知りたいなんて思ったのは、きっと初めてだった。


 手の中のトランペットケースが、きゅっと重みを増す。重力ではない何か――わたし自身の想いが、そこに乗っている気がした。


 黄色い看板が見えてくると、カナデが少し浮かれた声で言った。


「どうしよう。ポテトだけにするつもりだったけど……バーガーも食べちゃおうかな。ミナは?」


「えっ。わたしも……いけるかも。何かおすすめ、ある?」


「そうだな。私はいつも、ダブチ一択なんだけど」


 ダブチ? と疑問に思いつつ、カナデの笑顔には、もう影はなかった。その眩しさにつられるように、わたしも笑ってみせた。


 ほんの一歩、カナデに近づく。そのとき、わたしの手元でケースの金具が、小さく鳴った。


 ネオンの下で、夜の喧騒の中で――ふたりの足音と、音が、重なっていく。


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