第二話 響きあう放課後(3)
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「ああ、奏ちゃんお疲れ様。ちゃんと練習できた?」
受付に戻ると、先程の年配の男性がカウンターの向こうから親しげに声を投げかけた。カナデはまあねと軽く笑いながら、伝票を渡す。
「今日は奏ちゃんが友達を連れてきてくれたから、サービスで半額にしとくよ」
「えっ、ほんとに。店長、ありがとう」
「あ、ありがとうございます……」
店長、と言われた男性がレジスターを操作すると、規定の金額の半分の値段が表示された。店長権限でこんなことができるのかと感心していると、店長が口を開く。
「奏ちゃんが友達連れてくるのなんて久々だね、中学の時はよく来ていたじゃない。誰だっけ、あの……」
「……ああ、ほのかね」
言葉を受けたカナデが、途端に目を伏せて呟く。さっきまでの明るさがすっと引き、声に砂粒みたいな乾きが混じっていた。その一言が、カナデの中にある知らない姿を思わせて、わたしの胸がきゅっと縮まった。“ほのか”――わたしの知らない、誰かの名前。その響きが、心のどこかで引っかかっていた。
「そう、ほのかちゃん。今どうしてるの?」
「さあ……東高で吹部でもやってるんじゃないかな。私は私で淡々とやるよ。今はこの子の先生やってるけど」
唐突に肩を抱かれ、驚いて身体が跳ねてしまう。カナデの声に残る微かな棘が、どこか耳に引っかかった。店長はそれ以上何も言及せず、別れ際にまた来てねと言って大量のクーポンを渡してくれた。
自動ドアを抜け、夜の雑踏の中に飛び込む。辺りはすっかり日が落ちて、連なる居酒屋の看板が暗闇の中に浮かんでいた。カナデから渡されたトランペットケースが、静かに重力に引っ張られている。無意識的に駅の方面へと向かっていたわたしの脚が、ふと止まった。先頭を歩いていたカナデが、突然止まったからだ。
「……ミナ、お腹減らない? ポテト食べに行こうよ。今日からLサイズ、安いんだって」
暗闇の中で振り向いたカナデの輪郭が、ネオンの光の中でぼんやりと揺らいでいる。どこか無理しているように見えるその顔は、わたしがまだ見たことのない顔だった。わたしは小さく息を呑み、頷いた。
「い……行く! 学校帰りにファーストフード店に寄り道するの、憧れだったんだ」
横に並んで笑いかけると、カナデは「何その憧れ」と言って息を吐く。その笑顔に安心して、わたしは胸を撫でおろした。
繁華街の中を、わたしのローファーとカナデのスニーカーが並んで歩いていく。歩きながらわたしはカナデの横顔を、思わずじっと見つめてしまう。すっと通った鼻筋、涼しげな目元、黒い短髪。ネオンがまばゆく瞬いて、カナデの横顔を淡く染めていた。さっきまで見えていた“影”ですら、光に紛れて消えていくようだった。
……カナデって、こんなに綺麗だったんだ。いや、そんなこと、昨日会った時からわかっていたはずなのに。長いまつげに囲まれた瞳が、ゆらゆらと電飾の中に溶けている。見惚れていると、視線に気付いたカナデと視線が交差した。
「どうしたの?」
心拍数が一気に跳ね上がり、身体が熱を帯びた。わたしは焦って、「なんでもない」と頭を振る。カナデは、クラスメイトたちとはどこか違う。自由で飄々としたその空気に、なぜだか心が引っ張られる。もっと近づきたい。人に対して、初めてそう思った。そんな気持ちに気付いた途端、夜風に揺れるケースの重みが、手の中で温かく響く。
黄色の看板が近付いてきて、カナデが浮足立った声を上げる。ポテトと一緒にバーガーも食べちゃおうかな、ミナは何が好き? ……その笑顔に、もう影は残っていない。わたしは笑って、カナデに一歩近づいた。そのとき、手元で金具が、ちいさく鳴った。夜の街の中で、ふたりの音が、重なっていく。