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第二話 響きあう放課後(2)

「自分のがないと、練習できないでしょ? それに、この子も……誰かが吹いてくれたほうが、喜ぶからさ」


 この子――カナデはトランペットを、そう呼んだ。まるで、息をするみたいに。


 楽器じゃない。相棒で、友達で、ずっとカナデのそばにいた存在。そんな「この子」を、わたしに託すって――それって、どういうことなんだろう。


 固まっているあいだにカナデがケースから楽器を取り出し、わたしの膝の上に軽く置いた。条件反射で、慌てて両手で支える。指先が金色の管に触れた瞬間、身体の奥が震えた。それは思っていたよりもずっと重くて、あたたかかった。


 これが、音になるもの。昨日空を裂いた音が、この中に宿っていた。だけど、本当にわたしに鳴らせるだろうか。これを手にするということは、もう、立ち止まる理由がなくなるということだ。昨日までの何も持たない灰色の自分には、戻れなくなる。わたしには、重すぎる。でも、少しだけほしいとも思ってしまって――それが何より、怖かった。


「……本当に、わたしでいいの?」


 声が震えた。口にした瞬間、胸の奥にぐらぐらと波が立つのがわかった。怖い。期待して、裏切られることが、怖い。何も持っていない自分が、何かを持ってしまうことが――怖い。


 だけど、それでも……わたしの中に芽生えたこの気持ちが、もしほんの少しでも、間違いじゃないのなら。勘違いじゃないと、思わせてほしかった。


「うん。……ミナに、持っていて欲しいんだ」


 その言葉がわたしの中の感情を、そっとほどいていく。固く結んでいたはずの諦めが、音を立てて解けていく。


 カナデの声は優しかった。でも、優しさだけじゃなかった。信じている人の声だった。あのときの音みたいに真っ直ぐで、強くて――わたしの弱さごと、包み込んでくれるようで。


 これは、ただの楽器じゃない。わたしの中の何もなかった場所に、初めて置かれた何かだった。


 カナデの言葉を噛みしめるように、わたしはゆっくりと頷いた。


「……ありがとう」


 それは、やっと言えた一言だった。その言葉に、カナデが満足そうに笑う。その笑顔が眩しくて、まるで、わたしの最初の一歩を祝福してくれるみたいだった。


「昨日のよりは、初心者用で吹きやすいはず。すぐに慣れるよ。じゃあ、音出しから始めようか」


 そう言って、カナデはケースに付属していたマウスピースを手際よく取り出し、わたしに差し出す。震える手で受け取って、まだ手の温度が残る金色の本体にマウスピースを差し込んだ。


 その動作だけで、掌が緊張にじっとりと濡れた。


――これでいいの? 本当に?


 昨日、ほんの少しだけ音が出せたのは、カナデがそばにいたから。あれもまぐれだったんじゃないかという不安が、心の中でざわつく。


 だけど意を決して、おずおずと唇を当てる。息を吸い込み、吹き込んでみる。すると、かすれた音が頼りなく、空気の中に消えていった。まるで弱った動物の鳴き声みたいな、情けない音。


「やだ、やっぱり無理……!」


 わたしが思わず身を引きそうになると、すぐにカナデが隣に滑り込んでくる。その距離は近くて、慣れない香りと温度に、わたしの肩が硬直した。


「ミナったら、大丈夫だって。鳴らせたじゃん。じゃあさ、口の形をちょっと意識して……そうだな。ここ、少しだけ締めてみて」


 カナデはわたしの顎の下あたりを指で示しながら、柔らかい声で説明する。不思議と命令ではなく提案のように聞こえるその口調に、わたしは抵抗する理由を失いかけていた。


 もう一度、吹く。さっきよりも少しだけ、真っ直ぐな音になった。


「おっ、もう鳴った。今のが、ドの音だよ」


 カナデが嬉しそうに笑いながら、わたしの顔を覗き込む。黒く深い瞳がわたしを射抜いてきて、思わず視線を逸らしてしまった。胸の底が、トランペットの音よりずっと鋭く跳ねるようだった。


「ミナ、すごいじゃん。ちゃんと鳴ってるよ。できてる」


 その声はどこまでも真っ直ぐで、嘘のない響きをしていた。だけど、素直に受け取るにはまだ怖くて、わたしはただ黙って頷くことしかできなかった。


 しばらく繰り返していると、唇の周りがじんわりと痺れてくる。どれだけ集中しても、せっかく鳴らせるようになった音はくしゃっと崩れて、空気に飲まれていった。


「ははっ、疲れた? 最初はすぐバテるからね。そういう時に、無理に吹いたら駄目なんだ。今日は、ここまでにしようか」


 カナデが当然のようにわたしのコップを手にして、こちらに差し出してくる。「ありがとう」と受け取りながらも、その無意識の距離の近さに、胸がそわそわと波打った。


「次は、別の音を出せるよう練習してみよう。ミナってさ、音符読める人?」


 その問いかけに、一瞬、言葉が詰まった。頭の中に、小学生の頃の記憶がうっすらと浮かぶ。週に一度だけ通っていた、ピアノ教室。発表会も出たし、基礎は習ったはずだった。だけど、親の仕事の都合でいつの間にかやめてしまって、それきりだった。覚えているような、もう忘れてしまったような――曖昧な感覚だけが残っている。


「たぶん……? ちょっとくらい、なら」


「トランペットの楽譜はト音記号しか使わないから、そこさえ読めれば大体大丈夫だよ。これは運指表ね」


 カナデが鞄から紙を一枚取り出すと、それをわたしの前に広げた。数字と音符が並んでいる図――見慣れない記号に、一瞬たじろぐ。意味がわからず視線を上げると、カナデの細い指先が、すっとその紙をなぞった。


「数字はピストンの番号。口に近い順に1、2、3ってね。黒い丸は押す、白は押さない。たとえば……このレの音なら、1番と3番を押すと鳴るよ」


 すらすらと解説する声は、穏やかで柔らかい。だけど、やっぱり――わたしには、少し遠く感じた。わからない世界の言葉というよりは、知っていたはずなのに、今はもう手が届かない場所のようだった。忘れかけていた古い記憶が、カナデの言葉でそっと揺らされる。


 それでもピアノと違って、トランペットの押す箇所は三つだけ。思っていたよりもずっとシンプルに見えて、それでいて底が知れない世界が、目の前に広がっていた。


――そんなふうにぼんやり考えていたら、わたしの膝の上に、ぽんと何かが乗せられた。それは、突然差し出されたマイクだった。思わずまばたきをすると、カナデが茶目っ気たっぷりに笑っていた。


「じゃ、時間もまだ余ってるし……ちょっと歌っていく?」


「えっ……」


 咄嗟に手がマイクを受け取ってしまって、後悔が追いかけてくる。まさかトランペットの練習に来たつもりが、歌までやるなんて聞いてない。


 戸惑っている間にカナデはもう立ち上がっていて、操作パネルに手を伸ばしていた。迷いのない指先が、慣れた手つきでタブレットを起動する。それだけで、部屋の空気が少し明るくなった。


「はい、ミナから選んでいいよ」


 軽やかに差し出された、タブレット。本当に、何気ない仕草だった。だけどその自然さが、わたしにはどうしようもなく眩しかった。まるでわたしの躊躇いも、弱さも、気づいていないかのように。もしかしたら本当に、カナデは気にしていないのかもしれない。


 その強さが、羨ましい――だけど、同時に怖い。あまりにも違いすぎて、わたしだけが取り残されていくみたいで。


「そんな、わたしカラオケとか……得意じゃないし……」


 手の中のマイクが、持ち上げるには重すぎた。そっとテーブルに戻すと、視線は自然と自分の膝へ落ちる。スカートの裾から覗く足が照明に照らされて、妙に頼りなく見えた。


 液晶画面に映し出されている丸文字が、わたしの心を辟易とさせる。誰かに選ばれるのを待つ、無数の楽曲たち。だけど、どれもわたしとはかけ離れているように思えた。


「好きな音楽って言われても……自分でも、よくわからなくて……。人前で何を歌っていいのかも……わからない……」


 指先が、スカートの生地をぎゅっと掴む。その言葉はカナデに向けてではなくて、ただ自分に向かって零れ落ちたものだった。


 誰もそんなことを気にしてはいないのに、いつも勝手に自分だけが気にして、勝手に臆病になる。空気を読んで、場に合わせて、正解を探して、何もできなくなって――わたしはいつも、自分の中に閉じこもってしまう。


 いつの間にか殻に籠るのが、習慣みたいになっている。それは傷つかないためじゃなくて、嫌われないために。


「ミナ」


 ふいに名前を呼ばれて、顔を上げた。カナデは、少し困ったように笑っていた。だけどその笑顔は、わたしをからかうでもなく、責めるでもなく、ただ――優しさしかなかった。


「……ミナはさ、周りのこと……気にしすぎじゃない? ミナが好きにしてるの、良いと思うよ。少なくとも、私の前では……何も気にしなくていいよ」


 その一言が胸の奥に、真っ直ぐ届いた。「私の前では」なんて言葉、ずるいくらいに優しい。どうしてそんなふうに、迷いなく言えるんだろう。どうして、わたしにそこまで甘くしてくれるんだろう。


 わたしの中で、ずっと張っていた糸が切れた気がした。握りしめていた指先の力が、ふっと抜ける。空気が少しだけ、柔らかくなった。カナデの言葉があたたかさになって、わたしの怖さを溶かしていく。


 カナデはソファーにもたれながら、機械を器用に操作する。短く電子音が鳴って、次の瞬間、天井のスピーカーから明るい音楽が弾けた。テレビの画面には最近よく聞く流行りの曲名が、派手なフォントで映し出されている。


「この曲、結構好きなんだよね。ミナは知ってる?」


「えっ……? た、たぶん……? サビ、くらいは……?」


「よし、じゃあ一緒に歌おう」


 何も聞いてないようなテンションで、カナデがマイクをもう一度手渡してきた。断る暇もなく、押しつけられるようにして受け取ってしまう。やがて前奏が終わり、メロディが歌に突入する。カナデがわたしと目を合わせて、自然に、そして少し照れくさそうに歌い出した。


 その声は、思っていたよりもずっと伸びやかで、真っ直ぐだった。技術や巧さというよりも、言葉の芯に真っ直ぐ触れてくるような――まるで、音にそのまま感情を乗せているみたいな声だった。どこまでも飾らないその響きが、すとんとわたしの中に落ちてくる。


「ほら、ミナも」


 ふわりと顔を覗き込まれて、促される。わたしは視線を逸らしたまま、おそるおそる口を動かした。小さく、ぼそぼそと。音になっているのかも、わからないくらいの声。でも――わたしは確かに、歌っていた。


 その瞬間、喉の奥がざわめいた。言葉を音にするのって、こんなに怖かったっけ。声にならない感情が、喉の隙間から零れ出てしまいそうで――それを誰かに聴かれてしまうのが、たまらなく怖かった。


 だけどカナデはわたしの様子を確認して、目を細めて嬉しそうに頷いた。そして、少しだけ声を張って、わたしの声に寄り添うように重ねてくる。カナデの声が、まるで毛布のように、わたしの音を包み込んでくれる。たったそれだけのことなのに、息が少しだけ、深く吸えるようになった。


 音が、繋がった。


――なんだろう、この感覚。誰かと一緒に声を出しているだけなのに、ほんの少しだけ心が軽くなる。言葉を外に出すことが、声になるという行為が、こんなにも身体の奥に響いてくるなんて……知らなかった。


 声が震えても、かすれても、恥ずかしくても。それでも今、カナデがわたしの声に重ねてくれるこの音が――わたしにそれでいいと、そう言ってくれている気がした。


 少しだけ目を閉じてみる。わたしの声と、カナデの声が、ゆっくりと混ざり合っていく。わたしの歌はちぐはぐで、音程も不安定で、たぶん全然うまくなんかないけれど――それでも、不思議な一体感があった。身体の芯から、何かがそっと溶け出していく。


 きっとこれはトランペットの音とも、文字のやり取りとも違う。もっと無防備で、もっと怖くて――だけど、もっと自由な音だった。


 わたしという音が、世界と初めて繋がった気がした。


 そのあとも、カナデはわたしが知っていそうな曲をいくつか選んでくれて、わたしは気づけば何度もマイクを持ち直していた。最初はかすれたような声しか出せなかったのに、終わる頃には、少しだけ楽しくなっていた。部屋を出るとき、カナデが振り返って笑っていた。


「ね、ミナ。……気持ちよかったでしょ?」


 それは、茶化すような笑顔だった。だけど、どこか優しくて。わたしは思わず顔を背けて、小さく頷くことしかできなかった。それが照れ隠しだってことくらい、自分でもよくわかっていた。


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