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第二話 響きあう放課後(1)

 教室の窓からは、柔らかな春の陽が差し込んでいた。ノートに映る影がゆらりと揺れて、教科書の文字がぼんやり霞む。どこか、まだ眠りの中にいるみたいだった。授業の声は、遠くで水音のように流れていく。心だけが昨日の景色を、何度も巻き戻しては再生していた。


 あの金色の光。潮風に揺れる短い髪。わたしに差し出された、あたたかい掌――そして、自分の身体の中からふいに飛び出した、たったひとつの音。全部があまりにも綺麗で、優しくて、眩しかったから――逆に本当にあったことなのか、わからなくなっていた。


『ミナさえ良ければさ、一緒に楽器やってみない?』


 それはまるで、映画の中の出来事みたい。あるいは、夢の中の一場面みたい。だけどその夢はあまりにも鮮やかで、身体にまだ残っていた。


 そのときだった。わたしのブレザーのポケットが、静かに震えた。スマートフォンの音は鳴っていないのに、教室中に響いたみたいで、思わず肩をすぼめる。机の下でそっと画面を覗き込むと、次の瞬間――胸が、どくんと跳ねた。


 松波奏。昨日、友達登録したばかりの名前だった。だけど、たったそれだけの文字列が、急に現実に突き刺さる。まだ一日しか経っていないはずなのに、もうずっと前から、わたしの中にいたような気がしてしまう。


 やっぱり、夢じゃなかったんだ――。あの光も、あの音も、差し出された手も、全部が。この通知ひとつで、すべてが現実に変わった気がした。


『今日の放課後、駅前のカラオケに来れる?』


 カナデからのメッセージは、たったそれだけ。だけど、胸の内がざわめいた。これは誘われた……のかもしれない。昨日の続き? それとも、何かのついで? でも――本当に、わたしに届いた。それだけで、世界が少しだけずれていく。


 メッセージを見つめながら、放課後の予定を探す。と言っても、わたしは部活も習い事もしていないし、放課後遊ぶような友達もいない。虚しいけれど、予定なんてあるはずなかった。


 すぐに返信するのは、ためらわれた。『了解』と打っては消し、『行きます』と書いては悩む。どの言葉が正解なのか、わからなかった。


 結局、迷いながら『大丈夫だよ!』と送信する。少しだけ砕けた語尾に、猫のスタンプを添えるか迷って、画面をなぞる。変に浮ついているとは、思われたくない。でも、そっけないのも変かもしれない。そんなふうに考え込んでいるうちに、画面に既読がついた。


『あとでまた連絡するね』


 それだけの短い返信なのに、ふっと肺の中の力が抜けた。指先の冷たさが、やっと戻ってくる。返事が来ただけでなぜこんなにも安堵を呼ぶのか、自分でもよくわからなかった。


 画面を伏せて、そのまま机の中にしまい込む。身体のどこかでくすぶっていた何かが、ようやく落ち着いた気がした。


 昨日出会ったばかりで、まだ知り合いにすらなれていないのに。それでもカナデのあの音を、聴いてしまったから。あのまぶしさに、触れてしまったから。わたしの中で何かが少しずつ、変わってしまったのかもしれない。


 それからの授業は、ほとんど頭に入ってこなかった。ノートに書いた文字はどれも頼りなく、心ここにあらずの走り書きばかり。時計の針が少しでも進むたび、胸が落ち着かなくなる。


 六時間目が終わる直前、スマートフォンが小さく震えた。再び机の下で確認すると、案の定、カナデからのメッセージだった。書かれていたのは駅前にあるカラオケ店の名前と、部屋番号。ただそれだけの情報なのに、鼓動が一段と速くなる。


 カナデは、もうそこにいるんだろうか。サボり魔という印象は、自由な背中からすっかり刷り込まれてしまっているけれど――それでもこうして先に行って、わたしを待っている姿を想像すると、なんだか不思議な気持ちになった。


 終業のチャイムが鳴り響き、教室が一斉にざわめき出す。部活に向かう同級生たちの声が重なって、廊下へと流れていく。わたしもいつも通り、別れ際にクラスメイトへ手を振って、静かに鞄を肩にかけた。


 でも、今日は違う。まっすぐ帰るだけのはずだった放課後に、わたしのための予定がある。たったそれだけのことで、世界の色が少し違って見えた。


 制服のスカートが歩くたびに揺れて、バス停へと続く道のりを踏みしめる。いつもより風が涼しく感じるのは、気のせいじゃないと思った。


 バスに乗り込んで、揺れる車内で座席に腰を下ろす。窓の外を見ているふりをしても、落ち着かない。まるで心臓の鼓動だけが、騒がしく浮き上がっているみたいだった。


――どうしよう。なんか、緊張してきた。カナデはわたしが行っても、迷惑じゃないのかな。あんなに眩しくて、自由で、自分の音を持っている人が……どうしてわたしなんかを、気にかけてくれるんだろう。


 両手でぎゅっと握りしめていたスマートフォンの画面を、ふと見つめる。松波奏という名前の下に並ぶ、たった数行のやり取り。その少なさが、わたしたちの距離そのもののようだった。


 それでも――カナデのもとに、行きたいと思った。だって、名前を知ってしまった。音を知ってしまった。昨日、防波堤で見た光景は、まだわたしの中にしっかり焼きついている。あんなふうに、音で誰かを動かせる人がいることを、もう知ってしまったから。


 カナデに会いたい。……きっと、わたしはそう思っている。


***


 指定された店の前で深呼吸しようとして、うまくできないまま自動ドアをくぐった。カウンターで連れが先に来ていると伝えた途端、年配の男性スタッフがすぐに頷いた。


「ああ。奏ちゃんから、友達が来ると聞いていましたよ。この階の、一番奥の部屋です」


 そう教えてくれた声は穏やかだったけれど、「奏ちゃん」と呼ぶその響きが、どこか特別に聞こえた。


――店員さんに、名前も覚えられているなんて。やっぱり、常連なんだ。


 そう思うだけで、胸がそわそわと騒がしくなる。ドリンクバーのコップが、手の中でかすかに揺れていた。烏龍茶の表面に、波紋が広がる。なんてことないカラオケ屋の風景なのに、足取りがどこか落ち着かない。


 教えてもらった部屋の前に立つと、扉の向こうから音が聞こえた。こもった、けれど確かなトランペットの音。単なる試奏じゃない。吹こうとして、吹いている。誰かに聴かせるためではなくて、ただ自分のために――そんな気配が、扉越しに伝わってくる。


 どうしよう。何て声をかければいいんだろう。口の中が乾いて、舌の置き場がわからない。こんにちは? それとも、昨日のお礼を先に言うべき……?


 そんなことばかり考えているうちに、手がじんわりと汗ばみ始めた。結局何も決められないまま、ドアノブをそっと回す。


 瞬間、音が空気を割いた。澄んだ、でもどこか挑むような鋭さを帯びた音――それは真っ直ぐに胸を撃ち抜いて、わたしの中に染み込んだ。


「……ああ、ミナ! 来てくれたんだね、ありがと」


 こちらに気づいたカナデが、ぱっと顔を上げる。口元からトランペットを離したカナデは、昨日と同じように軽やかに笑っていた。


 だぼっとしたパーカーに、細身のジーンズ。制服じゃない。やっぱり今日、学校にはいなかったんだ。それを気まずそうにもせず、カナデは当然のようにここでわたしを待っていた――そのことが、まだわたしはどこか理解しきれない。


 かすかに暗い部屋の中、消音されたテレビだけがちかちかと点滅していた。わたしは部屋をきょろきょろ見回して、小さく声を上げる。


「カラオケで、楽器って吹けるんだね……。知らなかった」


 そう言って思わず、目を瞬く。トランペットが置かれたテーブルの上には、譜面やファイルが散らばっている。部屋全体が、練習場所として使い慣れた空気を纏っていた。


「店にもよるけど、ここは練習オッケーだからよく来るんだ。部屋も防音仕様だしね」


 そう言ってカナデは、指の背で壁を軽く叩いた。とん、と小さな音が、すぐに吸い込まれていく。静かだった。静かすぎて、耳が変に冴えてしまう。わたしは促されるままにソファーの端へ腰掛け、烏龍茶を一口すする。喉は渇いているのに、何も味がしなかった。


「それよりさ、今日はミナに、これを渡したくて」


 カナデがふいに身を乗り出して、わたしの隣に荷物を置いた。目の前に置かれたのは、角ばった茶色いケースだった。硬質な金具が、静かに光を反射している。見慣れないはずのものなのに、鼓動が一気に早くなる。


 だって、わかってしまった。中に何が入っているのか。


「開けてみてよ」


 そう促されても、すぐには手が動かなかった。掌がじんわりと、熱をもつ。この蓋を開けてしまったら――たぶんもう、昨日までの自分には戻れない。それでもカナデの視線が、優しく背中を押してくる。


 わたしは震える指で、おそるおそる金具を外す。かちりと静かな音がやけに響いて、そっと蓋を持ち上げた。


 そこにいたのは、金色のトランペットだった。光を跳ね返すその姿は、まるで新品みたいに綺麗で――でも、これはただの物じゃない。きっと、そこには誰かが何年も触れて、想いを重ねて、音を出してきた記憶が宿っている。


「これは、私が中学の頃まで使ってた楽器。今は全然使ってないから、私の代わりに使ってあげてよ。昨日、手入れもしといたから」


 さらりとそう言われた瞬間、心臓がぎゅっと掴まれたみたいだった。


「えっ……でも、そんな……」


 言葉にならなかった。嬉しい。でも、怖い。ありがとう、が言いたいのに――なぜだか口が閉じてしまう。喉元で、言葉が全部つっかえていた。受け取っていいの? 本当に? だけど、わたしの目の前には、確かにそれが差し出されている。


――まるで、ここでわたしが「はい」と言えるかどうかを、カナデに問われているみたいだった。


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