第十七話 それぞれの居場所(2)
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「ええと……お邪魔します」
金曜日の放課後、カナデに連れられて、わたしは初めて松波家を訪れた。学区が隣同士だから、地理的にはそれほど離れていない。だけど……家の前に立った瞬間、なんだか別の世界に来てしまったような気がした。門構えも庭の手入れも、わたしの家とはまるで違う。ガレージには、見るからに高級そうな外車が停まっていた。ひと目でわたしの家にはない格を感じてしまって、喉が少しずつ渇いていく。
「今日は誰もいないから、適当にくつろいで」
カナデが軽い調子で小洒落た玄関の扉を開けると、ふわりと洗練された香りが漂ってきた。スニーカーを脱ぎ捨てたカナデの隣で、わたしはぎこちなくスリッパに足を滑り込ませる。
「……ミナ、なんか緊張してない?」
「う、うん……人の家に行くの、あんまり慣れてなくて……。あ、これ、うちの親から」
朝、母親に渡された紙袋を差し出す。中には、デパートで買ったクッキー缶が入っている。ちょっと奮発した、普段よりお洒落な包装だ。
「えっ。これ、美味しいやつじゃん。別に気を遣わなくていいのに……でもありがとね。後で一緒に食べよっか」
カナデは紙袋を受け取って、玄関横の扉を開けてリビングへと入っていく。その瞬間――わたしは、息を呑んだ。大きな窓から光が差し込む、広々とした空間。シンプルでセンスのいいインテリア。壁際には巨大なテレビ、部屋の隅にはグランドピアノまで置いてある。わたしの家とは、何もかもが違っていた。ひとつひとつの家具、色づかい、空気の余白さえも――全部、違って見えた。
「……ねえ。カナデってもしかして……お嬢様なの?」
「えっ、突然何言ってんの。別に普通だよ」
カナデは笑いながら荷物を置いて、ソファーに腰を下ろす。そうは言ってもその普通が、どうしてもわたしには眩しく感じられた。たぶん普通の家に……少なくともわたしの家にグランドピアノなんて置いてないし……トランペットが家に何本もあるなんてこと、そうそうない。カナデの普通とわたしの普通は、どうやら少し違うらしい。そう思っただけで、胸の奥が小さくざわついた。同じ高校に通っていて、同じ時間を過ごしている。それなのに――わたしたちは、まるで違う世界を生きてきたみたいだった。なんでだろう。たったそれだけのことで、わたしのことなんて見劣りしてしまうような……そんな気がしてしまう。わたしは落ち着かないまま部屋を見回し、視線をグランドピアノで止めた。
「……カナデって、ピアノも弾けるの?」
「昔ちょっとね。そんなに上手くないけど……やってみよっか」
軽い調子でそう言って、カナデはピアノに近づいていく。グランドピアノの蓋をそっと開け、椅子に腰掛けた。細い指先が鍵盤に触れる。そのまま音を探るように、静かに、ひとつ、ふたつと音を落としていく。そのまま曲になるのかと思いきや、次の瞬間――十本の指が一斉に踊り出す。音符が跳ねるように空気を震わせ、部屋中に軽やかな旋律が響いた。カナデの演奏する姿は、なんだかトランペットを吹いている時とは違って見えた。表情は穏やかで、指は滑らかに、まるでその音が生まれる場所を知っているみたいに迷いがない。
……さっき、上手くないって言ってたのに。そんなの、きっと嘘だ。
トランペットだけじゃなく、ピアノも。しかも、こんな立派な家に住んでいて、きっと小さい頃から、カナデは色んなものに触れてきたんだろう。ピアノも、習い事も、教育も――きっとわたしには、なかったものだ。同じ歳なのに……わたしとは積み重ねてきた時間が、こんなにも違うんだ。
「……ほら、そんなでもなかったでしょ? そういえばミナもピアノ、やってたんだっけ」
カナデは軽く笑って、両手をぶらぶらさせる。こんな演奏をされた後に弾けるわけないと思いつつも――そんな無邪気な顔を見せられると、ずるいと思ってしまう。カナデの全部が眩しくて、たまらない。わたしはピアノの鍵盤の端に視線を落とし、声を絞り出す。
「わたしはもう全然……弾けないから……。カナデ、凄すぎる……」
「そんなことないって。……ピアノは、兄貴の方が上手かったし。今はもう、あんまり弾いてないみたいだけど」
懐かしそうに微笑みながら、カナデはグランドピアノの蓋をゆっくり閉じた。その横顔には、どこか苦いものが滲んでいた。
「昔から、何やっても兄貴には勝てなくてさ。勉強も運動もピアノも……全部敵わなかったな。だから……せめて、兄貴が途中で辞めたトランペットだけは……私が唯一、兄貴に勝てたものだからね」
そう呟いた声は、強がっているようでいて、どこか寂しそうだった。
――そっか。カナデにも、そういう感情があるんだ。
わたしと同じように、誰かと比べられて、悔しかったり、情けなくなったりしていたんだ。わたしよりずっと優秀で、完璧に見えるカナデにも――勝てなかった過去がある。届かなかった背中がある。