第十六話 音を重ねて(4)
この後、クリスマスコンサートの打ち合わせがあるというほのかに手を振って、わたしとカナデは並んで歩き出す。外はすっかり、夜だった。街灯がぽつりぽつりと路面を照らしていて、空は濃い藍色に染まっていた。まるで、絵の具を幾重にも塗り重ねたような、深い空だった。
「……ミナ」
名前を呼ばれた声が、夜の静けさに溶け込んでいく。わたしは立ち止まり、隣を見上げる。カナデも歩みを止め、わたしを見つめ返していた。その瞳が街灯の光を映して、夜の海みたいに艶やかにきらめいている。静かで、でもなにか確かなものを宿したまなざしに、胸がざわめいた。
「どうしたの?」
「今日さ、私を連れてきてくれて……ありがとう。ミナ、本当は……来たくなかったんじゃない?」
その声は、囁くように優しくて、でもどこか切なくて。わたしへの問いかけというよりも、自分の本音が零れたみたいな声だった。そんなふうに思わせてしまっていたことが、胸にちくりと刺さる。
「そんな……。最初は不安で、わたしなんかにできるわけないって……すごく怖かった。でも、今はね……来て良かったって、思ってるよ。カナデと一緒に行けて、本当に、良かった」
そう言うと、カナデは小さくまばたきをして、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……そっか。ミナは強いね」
夜空を見上げるその横顔が、どこまでも儚くて綺麗だった。空には雲ひとつなく、天球に穴があいたように、丸い月が白く浮かんでいた。その月明かりが、カナデの髪を淡く照らしていた。
「……案外さ。やってみたら、何とかなるもんだね。……ミナが、隣にいてくれたからだよ」
その言葉が、ふわりとわたしの中に落ちてきた。優しくて、温かくて、わたしの鼓動をそっと撫でる。
「あのとき、ミナが『一緒にやって』って、言ってくれなかったら……たぶん私は、今日ここにいなかった。ずっと合奏が嫌いで、怖がり続けてたと思うんだよね。だからさ、ありがとう」
カナデから、こんなふうに……感謝されるなんて。わたしがこんなふうに、誰かの音楽を変えることができるなんて。あのとき手を伸ばせたこと。今こうして、ふたりで歩いていること。どれも夢みたいで――だけど確かに、現実だった。
「わたしは、何も……。わたしもカナデがいたから、頑張れたんだよ。わたしひとりじゃ絶対に、無理だったよ」
わたしがそう言うと、カナデはゆっくりと視線を落とし、楽器ケースを背負い直した。金具が小さく鳴って、その音が夜に吸い込まれていく。
「……私、ずっと思ってたんだ。自分に合奏は無理だって。私は人と音を合わせるの、向いてないと思ってたし。でもさ、今日……ミナが隣にいたら、少しだけ……違ってたんだ」
その声が、ほんのわずかに震えていた。だけどそこには、もう迷いはなかった。目を伏せながら語るその姿に、胸が締め付けられる。
「……ミナの音、ちゃんと聴こえてたよ。すごく一生懸命で……緊張してるのも、頑張ってるのも、全部伝わってきた。……だから私も、ミナのことを想いながら吹いたんだ。そしたら、なんか……もう、ひとりじゃないんだって思えてさ。ミナに届けようって思ったら、音が、ちょっと変わった気がするんだ」
カナデがそう言って、はにかむように笑う。その笑顔に、息が止まった。カナデの強さも、脆さも、隣で見てきたつもりだった。だけど今の言葉には、それ以上のものが込められていた気がした。
こんなふうにカナデと音で繋がれるなら、今はまだ、言葉にしなくてもいいのかもしれない――そう思った瞬間、心の奥が静かに疼いた。
「わたしも……カナデの音を、聴いてたよ。どんなにたくさん音があっても、カナデの音だけは……すぐにわかるの。だって、わたし……カナデの音が、好きだから」
好き――そう言った途端に喉が詰まって、息が浅くなる。胸が熱くなって、頬が真っ赤になるのが自分でもわかった。
顔を隠すように俯いたわたしの前に、そっと差し出された掌。それはいつものようでいて、どこかいつもよりも丁寧だった。ゆっくりと、確かめるように伸ばされたその手が、迷いなくわたしを迎えてくれる。
「ははっ、ありがと。……ミナ、帰ろうか」
その声が、優しく夜を染めていく。わたしも手を伸ばして、静かにその手を握り返した。
触れた手は、もう震えていなかった。今日、ふたりで奏でた音みたいに――あたたかくて、確かだった。
わたし、トランペットを吹くのが好き。そしてそれ以上に、カナデと一緒に吹くこの時間が――たまらなく愛おしい。
わたしは目を閉じて、その手をぎゅっと、握り返した。わたしはもう、迷わない。わたしは、これからも――カナデと一緒に、音を重ねていきたい。
ふたりの影が、夜の色に溶けていく。そんな静かな幸福が、風に紛れて頬を撫でた。




