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第十六話 音を重ねて(3)

***


「いやー、美奈ちーと奏っちの師弟関係? めっちゃエモいね。ちょっと感動しちゃったよー。で、今日どうだったー? 楽しかった?」


 練習が終わって、片づけをしているときだった。朗らかな声とともに、柚希が軽やかに歩み寄ってくる。すでに楽器はケースにしまい終えたようで、ひょいっとそれを片手に掲げながら、笑いかけてきた。


 その瞬間――ふわりと、空気が揺れる。柚希の髪が肩先で揺れて、甘い花のような香りが、ふいに鼻先をかすめた。軽やかなのに、どこか深みのある香り。思わず鼓動が跳ねた。なんだろう、この感じ――目の前の人が、急に「大人のお姉さん」として迫ってくるような、不思議な距離感だった。


 笑顔も、仕草も、すごく自然なのに。その明るさの奥に、無意識の色気が滲んでいて――どこか掴めない、大人の余裕がある。思わず肩が、きゅっとすくんだ。


「えっ、ええと……楽しかった、です。でも、まだ全然吹けなくて……ご迷惑をおかけしてばかりで……ごめんなさい……」


 自分でも驚くほど、声が小さくなった。不安のせいなのか、それともさっきからちょっとだけ、心臓のリズムが変なせいなのか。わからない。だけど、柚希はわたしの肩を軽く叩いて、にっと笑ってくれた。


「いやいや、何言ってんの美奈ちー。ぜんっぜん吹けてたよ。それにさ、上手く吹けるかどうかより、私らと一緒にいてくれるのの方が嬉しいんだよー。ねえ、高洲オジ?」


「そうですね。おふたりが来てくれて、途端に賑やかになって楽しかったですね。それに、私なんて……ブランク三十年のオジサンですから……。何も気にしなくて大丈夫ですよ」


 高洲さんもわたしを見て、穏やかに笑ってくれる。その言葉に、胸の中でずっと張りつめていたものが、ゆっくりとほどけていった。


 こんなわたしでも――受け入れてもらえるんだ。そう感じられるだけで、こんなにも安心するなんて。積み重ねていた不安が優しい音色に包まれるように、ふっと溶けていく。


「……奏っちはどうだったー? 奏っちの音さ、超キラキラしてたねー。だけど柔らかくて、あったかくて。後ろからすごい支えてもらってる感じがして、めっちゃ吹きやすかったよ」


 その言葉に、カナデの手がぴたりと止まった。しまいかけていた楽器を持ったまま、目を丸くして――そして静かに、微笑んだ。


「……ありがとうございます。久しぶりに合奏しましたけど……やっぱり、楽しいですね」


 楽しい――その一言に、胸がぎゅっと締め付けられた。カナデにとって「楽しい」は、きっと簡単な言葉じゃない。カナデが口にした、「合奏向きじゃない」という言葉。冷たく閉ざしていた目。心を閉ざし続けてきた過去。それでも――今こうして、笑って楽しいと言ってくれた。それが、たまらなく嬉しかった。


「マジで? ふたりとも楽しめたみたいで、安心したわー」


 柚希が笑って、「じゃ、ふたりとも、また来週ねー!」と手を振って歩き出す。その明るい声が、音楽室の空気に残った。


――また、来週。たったそれだけの言葉なのに、心の奥にじんと染み込んだ。


 こんなわたしでも、ここにいていい。否定されない。誰かと一緒に音を出して、笑っていい。そう思えることが、こんなにも嬉しいなんて。


 わたしが思わず俯いた瞬間、近くで片づけをしていたほのかが、そっとカナデの側に近寄って来た。


「ねえ……奏。今、『楽しい』って……本当に、言ってくれた?」


 その声は小さくて、震えていて――けれど、切実だった。驚いて顔を見ると、その瞳には大粒の涙が浮かんでいた。照明の光を受けて、きらきらと揺れている。その涙の意味に気づいた瞬間、わたしの胸も静かに震えた。


 カナデも一瞬、言葉を失っていた。けれどすぐに、困ったように笑う。


「ちょっと、泣かないでよ。大げさだなあ……。でも、うん。楽しかったよ。誘ってくれて、ありがとう」


 その一言に、ほのかの顔がくしゃっと歪んだ。


「……良かった……! 本当に、良かった……!」


 声にならない声を漏らしながら、ほのかの頬からはぽろぽろと涙が零れ落ちる。その涙は、悲しみじゃない。ずっと願っていたことが叶った安堵と、喜びと、報われた想いの涙だった。そして――迷いなく両手を広げたかと思うと、勢いよくカナデに飛びついた。


「奏……! また一緒に吹けて……私、嬉しかった……!」


 その抱きしめ方は、まるで――失くしてしまった宝物を、ようやく取り戻せたみたいだった。腕の中にあるものを絶対に手放したくない、そんな強さがあった。


 わたしはその光景を、少し離れた場所から見つめていた。心のどこかが、少しざわついた。嫉妬――なのかもしれない。でも、それよりも強く感じたのは……。


「……美奈ちゃんも! 来て!」


 ほのかが、真っ赤に泣きはらした目でわたしの名前を呼んだ。近くに寄るとわたしの手を、ぐっと躊躇いなく引っ張る。


「えっ? ほのかちゃん……!」


 言葉を言い切る前に、気づけば三人の身体がひとつに重なっていた。ぎゅうっと抱きしめられて、頬が触れ合う距離。くすぐったくて、恥ずかしくて、だけど――あったかい。その空気は泣き笑いの混ざった、柔らかくて優しい空気だった。


「美奈ちゃんが、勇気を出してくれたおかげだよ……! 本当に、ありがとう……!」


 ほのかの声は、まだ震えていた。だけど、その中には確かに報われた想いが宿っていた。過去の後悔も、喪失も、その一言で救われたような、そんな声音だった。


 その腕に込められた力に、わたしの背中も小さく震える。わたしはそっと、ほのかの背中に手をまわした。そして、抱きしめられたままのカナデは視線を逸らしながら、照れたように頬を掻いていた。「泣くほどのことじゃないでしょ」なんて……きっと、そう言いたかったんだと思う。だけどその目も、少しだけ赤くなっていた。


……よかった。この選択をして、ここに来て、本当に、よかった。


 わたしが吹いたあの小さな音が、誰かの涙になって、笑顔になって、音楽になって――ちゃんと、未来に繋がっていく。バラバラだったわたしたちが、今はこうして、ひとつの音の中にいる。それが、たまらなく嬉しかった。


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