第十六話 音を重ねて(2)
「じゃあもう一回、冒頭から。次は止めながら行きますね」
指揮者のその声とともに、指揮棒が上がる。わたしは楽器を構え、息を吸い込んだ。怖さはまだ、喉の中に棘のように残っていた。けれどさっきよりも、ほんの少しだけ、手の中のトランペットが軽く感じられた気がした。
手元は相変わらず震えていたけれど、今度は――カナデの音に、寄り添うように吹いてみる。隣にいるカナデの気配を感じながら、呼吸を重ねるようにして、音を出す。耳を研ぎ澄まし、意識をカナデだけに向ける。するとカナデの音が静かに、でも確かにわたしの胸に入り込んできた。
――いつもと、違う。
カナデの音は芯のある真っ直ぐな音なのに、どこか優しくて、あたたかくて、ほんの少しだけ寂しげだった。その音はまるでひとつの言葉みたいに、心に触れてくる。それに合わせてわたしの音も、そっと重ねていく。音の境界線が曖昧になって、どこまでがわたしで、どこからがカナデか――境目が薄れていった。気づけば、まるでふたりでひとつの楽器になったみたいだった。
「……ストップ。ええと、トランペットかな」
譜面台を叩く音が、ぴんと空気を震わせる。その瞬間に音が止まって、心臓が締め付けられた。
……止まった? え、もしかして、わたし……?
「……今のフレーズ、トランペット全員で吹いてみて」
胸のざわめきを必死で抑えながら、もう一度楽器を構える。今度はトランペットだけ――音を出した瞬間に、防御が全部剥がされたみたいだった。さっきまで感じられていた安心感の壁が途端になくなり、丸裸でステージに立たされたような心細さに襲われる。
「ふむ、いいですね。じゃあ次、ファーストからひとりずつやってみて」
ひとりずつ。その言葉が、鋭く突き刺さる。頭の中が、フリーズした。
――待って。それってつまり……わたしも……?
喉が縮んで、うまく息が吸えなくなる。指先がじんわりと湿って、楽器が滑りそうだった。
柚希が吹いた。煌びやかで、堂々としていて、舞台のスポットライトみたいに輝いていた。高洲さんの音は深くて落ち着いていて、大人の包容力があった。ほのかの音は、いつも通りふんわりと柔らかくて、安心できる優しさに満ちていた。
そして――カナデの番がきた。
カナデは少し目を閉じて、深く息を吸う。マウスピースに口元を寄せたその瞬間、空気が変わった気がした。カナデの音が、静かに放たれる。いつもとは違って強くもなく、派手でもなく、それなのに不思議なほど心に残る音。あたたかくて、包み込むようで――音の輪郭だけが、柔らかい。まるで誰かに、「大丈夫」と言ってくれているみたいだった。
言葉じゃなく、音で寄り添おうとする意志。その音には確かに、誰かと一緒に吹こうとする――今までのカナデにはなかった願いが込められていた。
……こんな音を、出せるんだ。驚きと感動が、胸を静かに満たしていく。
その音は、まるで問いかけだった。孤独に閉じていた過去の音じゃない。「あなたと吹きたい」という、名前のない願いが音になって滲んでいた。
わたしもこの人と、合奏したい。そう思える音だった。
「……素晴らしい。では次、あなたですね」
――来た。
指揮者と目が合った瞬間、身体がびくんと跳ねた。視線が一斉に、わたしに集まる。息ができない。喉が閉じていく。トランペットを持つ手がじっとりと濡れていて、落としそうになる。
落ち着いて。大丈夫。そんなに難しいフレーズじゃない。
だけど、頭の中でその言葉を繰り返すたび、呼吸が浅くなる。全身がこわばって、指も動かない。
今すぐ逃げ出したい。もう無理だ。音なんて出せるわけがない。
「……ミナ、落ち着いて! 大丈夫だから」
隣から、カナデの声が聞こえた。優しくて、真っ直ぐで――いつもなら、それだけで息が戻るはずなのに。今はその声すら、遠い。音が、言葉が、ガラス越しみたいに薄くなる。目の前は見えているのに、頭だけがふわりと後ろへ引いていく。
楽器を構えたまま、意識がずるずると滑り落ちた――その瞬間だった。カツンと、指揮棒が譜面台を叩く音。鋭くて、硬くて、逃げ道のない音が、わたしの鼓膜の奥に突然響いた。
「音楽って、どういう字を書くか分かりますか?」
「……えっ?」
息を吸いかけたまま、身体が止まった。顔を上げると、指揮者の先生がこちらを見ていた。叱っている目じゃない。急かす目でもない。何かを、わたしに伝えようとしている――そんな眼差しだった。戸惑いながらも、わたしは小さく答えた。
「え、ええと……音を、楽しむ……?」
その言葉に、先生は静かに頷いた。
「その通り。『音』を『楽しむ』と書いて、音楽と読みます」
指揮棒を台に置いて、先生は一度だけ息を整える。それから、わたしだけじゃなく――部屋全体に向けて言った。
「技術も経験も、もちろん大切です。けれど、今みたいに息が固まってしまうと、音は苦しくなる。音がただ上手いだけでは、人の心には届きません。逆に、奏者が楽しむことを忘れていない音は……たとえ不格好でも、ちゃんと心を打つんです」
その言葉が、胸の奥の硬い結び目に、すっと入り込んだ。
――音を、楽しむこと。
初めて音が鳴った日のこと。カナデが隣で「できた!」と笑ってくれたこと。うまくいかなくて、悔しくて、それでも吹けた瞬間に、ふたりで笑い合った時間。そして、さっき。カナデの音に、わたしの音が重なったとき。心が跳ねて、息が熱くなって――怖いのに、嬉しくて。あの瞬間だけは、ただ、ただ……楽しかった。
うまく吹こうとしなくてもいい。誰かに認められようとしなくてもいい。わたしは――カナデと一緒に音を出せることが、嬉しかった。その気持ちが、今でも胸の中に広がっている。
「この楽団は、コンクールで上を目指す場所ではありません。好きだから集まって、好きだから吹く。そういう場所です。失敗してもいい。音を外しても、迷子になってもいい。あなたの中にある楽しいという気持ちを、音に乗せてください」
気づけば、まわりの視線が柔らかくなっていた。ほのかが、柚希が、高洲さんが――他のパートの人たちも、誰もわたしを責めていない。わたしを急かさず、置き去りにせず、「大丈夫」と静かに言ってくれている。
「……ミナ、やってみよう。大丈夫、ミナならできるよ」
カナデがわたしと目を合わせて、小さく頷いた。わたしも唾を飲み込んで、ゆっくりと頷き返す。
わたしはたぶん、トランペットが好きだ。カナデの音も、わたしの音も。トランペットを吹く時間も、カナデと過ごした時間も。そして今、カナデが信じてくれているこの瞬間も――全部、好きだと思えている。その気持ちを胸に、楽器を構える。
震えはまだ、完全には消えていなかった。だけど、もうそれすらも受け入れていい気がした。喉の奥のつかえが、すっと落ちる。わたしはそっと息を吸って、管に吹き込む。
音が、出た。
何も特別な音じゃない。だけど、それは確かに、わたしだけの音だった。震えるほど怖かったけど、そこには確かに、わたしの「好き」が――全部、詰まっていた。
「……素晴らしい。先ほどのサードの方との相性も、とてもいいですね。お互いの音を聴き合いながら、ぜひ上のパートを支えていってください」
楽器を下ろして頷くと、カナデがそっとこちらを見ていた。目が合った瞬間、ふたりで静かに笑い合う。
――わたしの音を、ちゃんと聴いてくれている人がいる。わたしの音が、誰かの音に重なっていく。ただそれだけのことが、こんなにもあたたかいなんて、知らなかった。吹いた音が、ちゃんと届いていた。受け止められていた。そう思えるだけで、心がふわりと柔らかくなる。
「……では、次は全員でやってみましょう」
指揮棒が再び構えられ、曲が始まる。もう大丈夫。今度はちゃんと、音楽になれる気がした。




