第十六話 音を重ねて(1)
指揮棒が振り下ろされた瞬間、音楽室の空気がぴんと張り詰めた。まずは、音階を四拍ずつ伸ばしていく。いつもなら何でもないはずなのに……唇が強張り、楽器の中にうまく息が入らない。呼吸が浅くて、喉が閉じて、音がかすれる。わたしのか細い音は、他の楽器にすぐに飲み込まれていく。スラー、スタッカート、ノータンギング。音階練習は次々に変化していくけれど、それに食らいつくだけで精一杯だった。周りの音を聴く余裕なんてない。隣にいるはずのカナデの音も、もう全然、聞こえなかった。
焦りが喉に絡みつき、息がますます苦しくなる。うまくいかない。練習したのに、自分なりに頑張ってきたつもりなのに、こんなに何もできないなんて――
「……ミナ、大丈夫? ちゃんとできてるから、自信もって」
音階が一通り終わって指揮棒が下りたタイミングで、カナデが声をかけてきた。それは小さな声なのに、真っ直ぐ胸の奥に届いて、思わず目を伏せた。わたしと違って、カナデの姿はいつも通り。しっかりと前を向き、表情も崩さずに吹いている。
――強いな、やっぱり。すごいな。
わたしが小さく頷くと、カナデは楽器を握り直しながら、もう一度わたしを見た。その目は、どこか決意を宿していて、真っ直ぐで。
「合奏で分からなくなったら、私の音を聴いていて。ミナを見習って、私も頑張るから」
“私は合奏向きじゃない”――この間聞いた、カナデのどこまでも冷たい声がよみがえる。カナデだって、自信満々なわけじゃない。どこか不安を抱えているようにも見えるのに――わたしのために、言ってくれている。そんなカナデのひたむきさに、胸がじんと熱くなる。カナデも、怖いんだ。だけどそれでも、わたしの手を引こうとしてくれている。だからわたしも、逃げられない。
次の曲が始まった。アップテンポなクリスマスソングは知っている曲のはずなのに、譜面の上ではスピードが速すぎて、目で追うのがやっとだった。どんどんと譜面が進んでいく。気を抜くと、すぐに音楽から置いていかれる。所々のメロディーに、合いの手のような装飾。わたしは譜読みが得意じゃないから、馴染みのあるメロディー部分以外のリズムの取り方が分からない。なに、この休符……? あっ、フラット落とした! 間違えた! 気持ちが焦って、視線が指先に吸い寄せられる。その瞬間、わたしは音の中で迷子になった。今、皆がどこを吹いているのか分からない。見失ったと思い、頭が真っ白になる。譜面の中をさまよっても、どこにも自分の居場所が見つからない。胸の奥がざわざわして、汗が首筋をつたうようだった。
――やっぱり、わたしには無理……!
心の中で諦めかけた、そのときだった。音の渦の中から、ひときわ澄んだ音が聞こえた。カナデだ。輝くような音が、空気の中を切り裂いてわたしの耳に届く。そこに、確かに“道しるべ”がある気がした。……そうだ、カナデの音を聴いて。カナデは、どこを吹いている? 必死に耳を澄ませて、もう一度譜面をなぞっていく。このメロディー……この場所。ここだ。
震える指で楽器を構え、思い切って息を吹き込む。すると、音がカナデの音と重なった。ぴたりと、噛み合った感覚があった。その瞬間、身体の奥からふっと力が抜ける。大丈夫。繋がっている。カナデの音に導かれて、わたしの音が重なり、そこにほのかの音、柚希の音、高洲さんの音が寄り添ってくる。いくつもの音が混ざり合い、ひとつの音楽になっていく。
……こんなふうに誰かと一緒に音を出すのって、すごいことなんだ。
指揮棒が最後の一振りを描いて、音がふっと消える。音楽室に緩んだ空気が戻ってきて、わたしはようやく楽器を下ろした。終わった……と胸の内で呟いたとき、肩をとんとんと軽く叩かれる。顔を上げると、カナデが笑っていた。片手に楽器、もう片方の手を拳にして、そっと突き出している。
「ミナ、頑張ったね。すごく良かったよ」
ちょっと照れくさそうに笑うその顔を見て、胸がじんとする。良かった? そんなことない。間違えたし、途中で止まったし、迷惑かけた。だけど……その言葉が嬉しくて、たまらなかった。
「……ありがとう。カナデのおかげだよ」
わたしも緩く拳を作り、カナデの拳にこつんと重ねた。たったそれだけのことなのに、胸の奥に小さな光が灯った気がした。――大丈夫。次はもう少し……うまくできるかもしれない。
「じゃあもう一回、冒頭から。次は止めながら行きますね」
指揮棒が上がる。わたしは楽器を構え、息を吸い込む。怖さはまだ残っているけれど、手の中にあるトランペットが、さっきよりもほんの少しだけ、軽く感じられた。