第十五話 一緒に吹く勇気(3)
「じゃー早速、譜面を渡していこうかなー。パート割は割とテキトーだけど。二人ともなんか、希望あるー?」
柚希がファイルをがさごそと漁りながら、軽い口調でこちらに尋ねてきた。その何気ない一言が、喉の奥に緊張を絡ませる。息を整えて、なんとか声を絞り出す。
「あっ、あの……い、一番簡単なのにしてください……わたし、全然吹けないので……」
目を伏せながらそう言うと、柚希は「えっ?」と小さく反応して、ファイルの中を探りながら首をかしげた。
「一番簡単なの? まあ、今回の譜面は全体的に易しいけどねー……じゃ、サードの譜面を渡しとくかー。奏っちはどうするー?」
柚希はファイルの中から何枚か譜面を取り出し、わたしに手渡す。初めて見る、吹奏楽の楽譜だ。譜面を見て、なんだか一気に現実感が増してきた。緊張で震えていると、カナデはわたしの譜面を覗き込み、「ミナと同じ譜面をお願いします」と言ってくれた。その言葉に、胸が少しだけ温かくなる。柚希は頷き、「おっけー」と言いながら数枚の譜面をカナデに手渡す。
「じゃあ、奏っちと美奈ちーはサードね。ほのちーはセカンド、うちと高洲オジがファーストでいこうかー」
すべてを決め終えると、柚希はひょいとしゃがみ、年季の入った自分の楽器ケースを開ける。その中から現れたのは、まばゆいほどに金色に輝くトランペットだった。ベルの部分には繊細な彫刻が施され、ピストンには赤い石が埋め込まれている。まるで装飾品のようなその楽器に、一瞬で目を奪われた。
「……C管トランペット……!」
わたしの横で、カナデがはっと息を呑んで呟いた。その声に、柚希がにっと笑って振り向いた。
「おっ、奏っちわかるー? うちはC管の方が好きなんだよねー。この彫刻も、かわいいっしょ? じゃあ二人とも、一緒に楽しもうねー。よろしくー」
指で軽くピースを作って見せるその仕草も言葉も、どこまでも軽やかな“気さくなお姉さん”なのに――纏う空気だけが、どこか異質なほど濃くて……。
言葉を失っていると、カナデがわたしの耳元で教えてくれた。カナデ曰く、世間で一般的に使われているトランペットは――B♭管トランペットというらしい。読み方は、“ベー管”……って、何それ? とにかく、カナデの楽器もわたしの楽器もそのトランペットだし、だいたいの楽譜はそのトランペット向けに書かれている。C管トランペットはクラシックやソロで使用されることがあるみたいだけど、吹奏楽で出番があることは滅多になくて……楽譜もC管向けには書かれてはいない。ちなみに読み方は、Cと書いて“ツェー”。カナデの説明は聞きなれない言葉ばかりで、頭の中は疑問符で溢れていた。
「……つまり、あの人はB♭管の譜面を、頭の中でC管用に変換して吹いてるんだと思う。翻訳しながら吹く、みたいな感じかな。普通は、あんなの無理だよ。たぶん私も……できないんじゃないかな」
カナデが視線を外しながら呟くそのことが――どれほどすごいことなのか、わたしには分からない。だけど……カナデが自信なさげに言うほどのことなら、きっと本当に尋常じゃない技術なんだろう。柚希の底知れなさに、背筋がひやりとするようだった。やがて、柚希はぴかぴかと輝く金色のマウスピースを取り出し、楽器に取り付けた。その動作ひとつひとつが無駄なく洗練されていて、惹きつけられる。紅く彩られた唇がマウスピースに触れたその瞬間――空気が一変した。
放たれた音が、音楽室にまるで光のようにぱあっと広がっていく。明るくて、鮮やかで、どこか遊び心があって、だけどもしっかりとした芯がある。ネイルの乗った長い指先が軽やかに赤いピストンを弾き、音がまるで跳ねるように響く。カナデとも、ほのかとも違う音色。まるで楽器と一緒に、遊んでいるみたいだった。
「……これは確かに、すごい人だね」
カナデが感嘆の声を漏らすと、隣のほのかが目を輝かせて頷く。
「ね! ユズちゃん先輩、すごいでしょ!」
そのやり取りを聞きながら、わたしは自分の膝の上に置いた楽器を見つめる。心臓の音が、どんどん速くなっていくのが分かった。息を吸うたびに、胸が苦しくなっていく。
……こんなにすごい人たちの中に、本当にわたしがいて、いいの?
柚希から渡された譜面に、視線を落とす。クリスマスコンサートなだけあって、知っている曲も多かったし、音域的にも出せる範囲だったのが救いだった。けど……それすら吹けるかどうか、分からない。手には汗が滲み、楽器が滑りそうになる。隣では、カナデが音出しを始めていた。だけどその音は、どこか遠くで響いているようで、頭に入ってこない。
――どうしよう。逃げたい。でも……。カナデと「一緒に頑張ろう」と、約束した。だから……無理でも、やってみるしかない。怖い。怖いけど、それでも……。
音楽室の扉が、静かに開かれた。年配の男性が、軽やかな足取りで中に入ってくる。わたしたちを見回しながら、片手を上げ、にこやかに告げた。
「さあ、合奏を始めよう!」
楽しそうなその声が、合図のように響き渡る。胸の奥に、またひとつ波が立つ。この瞬間から、わたしの知らない世界が――静かに動きだしていくようだった。