第十五話 一緒に吹く勇気(2)
バスに揺られて、ほんの十分ほど。窓の外に広がる景色が、徐々に住宅街へと変わっていく。ほのかに教えてもらったバス停で降りると、そこから数分歩いた先に、小さな校舎が姿を現した。
廃校になった小学校を再整備したという、地域のコミュニティセンター。低いコンクリートの建物、グラウンドの影を残した駐車場、少し軋む外階段。初めて来た場所のはずなのに、ふっと懐かしさに揺れた。
「……小学校みたいで、ちょっと懐かしいね」
隣でカナデが、ぽつりと呟く。その声にわたしも頷きながら、校舎を見上げた。もし、カナデと同じ小学校に通っていたら――こんなふうに、並んで昇降口をくぐったりしたんだろうか。想像してみたら、なんだかくすぐったくて、自然と笑みが零れた。
ふたりで廊下を歩きながら、音楽室を目指す。ワックスのかかった床の光沢、子ども用の低い手洗い場。小学生の頃の記憶が、少しだけよみがえる。そんな中で――。
「あっ、美奈ちゃーん! と、奏~!」
突然、廊下の奥から澄んだ声が響く。顔を上げると、制服姿のほのかが両手を振って、こちらに向かって全力で駆けてきた。いつも通りの優しい表情。その笑顔の奥には、張り詰めていたものがほどけていくような安堵が滲んでいた。
「ふたりとも……! 今日は来てくれてありがとうね! 迷わず来れた?」
駆け寄るなり、ほのかはわたしの手を取って、勢いよくぶんぶんと振る。その仕草があまりにも無邪気で、思わず緊張を忘れて笑ってしまった。
だけどその掌が、ほんの少し汗ばんでいるのに気づく。きっと、ここまで緊張していたのは、ほのかも同じだったんだ。
「……奏も! 来てくれて、嬉しい……。本当に……また奏と一緒に、吹けるなんて……! 夢みたいだよ……!」
目を細めて笑ったほのかが、今度はカナデの方をまっすぐ見つめる。その瞳が、少し潤んでいるようにも見えて――わたしの心が、じんわりと温かくなった。カナデは一瞬照れたように目を逸らして、「お手柔らかにね」と小さく笑う。その微笑みに、わたしもつられて口元が緩んだ。
ほのかに引かれるまま、三人で音楽室へ向かう。ドアを開けた先には、すでに何人かの団員が集まっていて、譜面台の準備や楽器の点検をしていた。
その入り口すぐ脇にいた女性と目が合い、思わずぺこりと頭を下げる。すると、すかさずほのかが耳元で「団長だよ」と教えてくれた。
「ほのかちゃんから話は聞いてるよー! 助っ人、来てくれて本当助かる~! ありがとね、楽しんでいって! もうね、このまま入団してくれても全然構わないから!」
弾けるような明るい声に、思わずたじろぎそうになる。カナデはともかく、わたしは助っ人なんて、そんな立派なものじゃない。ただの初心者のわたしが名乗っていい肩書きなのか、不安ばかりが頭をよぎる。だけど――不思議とその言葉は、わたしの中にすっと入ってきた。
誰もが明るくて、オープンで――そこにある空気が、まるでわたしたちを「仲間として迎えるよ」と、温かく包み込んでくれている気がした。それがなんだか嬉しくて、こわばっていた身体の芯が、ふわりと溶けていくようだった。
「ユズちゃーん! トランペットのふたり、来たよー!」
団長の声に、音楽室の奥で何やら準備をしていた女性が、ふわっと顔を上げた。すらりとした長身に、肩で揺れる金髪のボブ。耳元の大ぶりのピアスがきらりと光って――まるで、雑誌の中から抜け出してきたモデルさんみたいだった。
高校生のわたしたちとは、世界がまるで違う。その圧倒的な大人っぽさに、思わず息を呑んだ。
「んー? あー、そういえば来るって言ってたねー?」
気だるげな声とともに、彼女はゆるりと立ち上がり、わたしたちの元へ歩いてくる。長いまつ毛に囲われた、眠たそうな目元。短めのトップス、ちらりと見える細いウエスト。その足取りも、仕草も、空気までもが軽やかで――まさに、大人のお姉さん。
「美奈ちゃんと奏。こちら、トランペットのパートリーダーの、ユズちゃん先輩」
ほのかが紹介すると、彼女はゆるっと笑いながら、手をひらひらと振った。
「どーもー、磯辺柚希だよー。ほのちーから聞いてるよ、奏っちと美奈ちーね」
えっ、奏っち? 美奈ちー? その一瞬で距離を詰めてくる呼び方に反応が追いつかず、戸惑いが先に立つ。隣のほのかが「ふふっ」と笑った。
「ユズちゃん先輩……すっごく素敵な人なんだよ」
そう言われて柚希の顔を見ると、とろんとした瞳がわたしたちをまじまじ見ていて、そして――くすっと、緩い笑顔で笑われた。
「ふーん。なるほどねえー? ふたりは師弟関係って聞いてたけどー……美奈ちーはふわふわ可愛い系で、奏っちはなんか……クールビューティーって感じ? うん、映えそうだねー。いいじゃん」
柚希の放つひとことひとことのワードセンスが未知の世界で、脳内処理が追いつかない。それでも柚希は何も気にせず、くるりと背を向けて歩き出す。
「とりあえず案内するから、ついてきて~」
ぽかんとしたまま、わたしたちはその背中を追った。隣でほのかが、こそっと囁く。
「ユズちゃん先輩はね、すごく優しいし演奏もかっこいいんだよ。本当、尊敬しちゃう」
その頬に、ふわりと浮かぶ照れ笑い。こんなふうに、ほのかが心から尊敬するお姉さん――それが、「ユズちゃん先輩」。わたしは頷きながら、彼女の揺れる金色の髪の毛に見惚れていた。
音楽室の後方、パイプ椅子がいくつか並べられているスペースに案内される。柚希に促され、わたしは自然と一番端の席を選んだ。その隣にカナデ、ほのかと並んでいく。
「助っ人、ほんと助かるよ~。最近ペット減っちゃって、困ってたんだよね~。あ、そうそう。もうひとり、ペットのオジサンがいるから紹介するねー」
ペット……トランペットのことを、そう呼ぶのか。心の中で納得しかけていたとき、近くでトランペットを調整していた男性が、こちらに歩み寄ってきた。
「どうも、トランペットの高洲です」
にこやかな声と、穏やかな表情。だけど、その見た目はどう見ても、わたしの父親と同じくらいの世代だった。
「高洲オジは、今じゃペットパート唯一のオジサンなの。昔はオジサンばっかだったんだけどね~」
柚希がばしばしと、高洲さんの背中を叩く。そのフランクすぎる距離感に、一瞬言葉を失った。
確かに、仲良さそうだけど……このテンション差に、ついていける気がしない。
高洲さんは困ったように笑いながらも、軽く会釈を返してくれる。その優しげな表情に、少しだけ緊張がほぐれた。
「って感じでー、うちの団のペットは私と高洲オジと、ほのちーの三人。で、今日から奏っちと美奈ちーが入って、五人! 平均年齢が一気に若返って、ウケるね~」
「若い女の子ばっかりで、おじさんは緊張してしまいますね」
「高洲オジ、それセクハラだから気を付けてねー? JKは繊細なんだから~。下手なこと言わないように、お姉さんが見張っておいてあげるからねー」
そんなふたりの軽妙なやりとりに、場の空気がふっと和む。
――なんだか、すごい世界に来てしまった。
ほのかは楽しそうに笑っているし、柚希も高洲さんも、悪い人ではないことはわかる。むしろ、どこかあったかくて――優しい。
だけどやっぱり、戸惑いのほうが勝ってしまう。そっと隣を見ると、カナデもぽかんとした表情のまま固まっていた。たぶん今のわたしの顔も、きっと同じ。
市民吹奏楽団マリンウィンド、ペットパートという世界のテンションに、まだ身体も心も追いついていない。




