第十五話 一緒に吹く勇気(1)
日曜日の午後。改札を抜けた瞬間、いつものように楽器ケースを背負ったカナデと目が合った。何でもない一瞬のはずなのに――その視線を受けた途端、心臓が跳ねる。思わず呼吸が詰まりそうになって、わたしはカナデに近寄りながらぎこちなく口を開いた。
「……ごめんね、カナデ。待たせちゃった……?」
わたしの楽器ケースは、いつもよりもずっしりと重たかった。握りしめた掌には汗が滲んでいて、ほんの少し力を抜くだけで滑り落ちてしまいそうだった。怖い。この先にある場所も、今日という時間も、全部、怖い。けれどそれ以上に――今、隣を歩くカナデに、不安な顔を見せてしまいそうな自分が、怖かった。
「いや、さっき来たとこだけど……ミナ、大丈夫? 顔、死んでるよ」
カナデの柔らかい声が、からかい半分、心配半分で響いた。指摘されて、わたしは空いている手で頬を触る。頬を軽く揉んで、引きつった筋肉をほぐすように笑顔を作ってみたけれど――それはまるで、仮面のよう。だけど貼り付けた笑顔は、カナデには見透かされていたようだった。そんなわたしを見て、カナデは僅かに眉をひそめる。
「……本当に大丈夫?」
じっと見つめてくるその瞳が、優しくて、真っ直ぐで。逃げ出したい気持ちが、ほんの少しだけ溶かされていく。大丈夫なわけ、ない。ほのかの前で、あんなに堂々と引き受けてしまったけれど……あの日帰ってからはずっと、今日が来なければいいのにと願っていた。
市民吹奏楽団――マリンウィンド。団員約四十人。高校生から大人まで幅広い年齢層で、初心者からプロまで経験値も様々――ほのかから事前に聞いた情報は何一つ、わたしの不安を打ち消してはくれなかった。そんな中に、トランペット歴数ヶ月のわたしが入るなんて。練習についていける気がしないし、音なんて絶対に揃えられない。楽譜だって、リズムだって、まだよく分かっていないのに。……無理だよ。やっぱり、わたしには無理。
「……だ、大丈夫」
震えそうになる声を押し殺して、わたしはケースをぎゅっと握り直す。無理矢理身体の向きを変えて、バス停に向かって一歩を踏み出すと、カナデも黙って隣に並んだ。
……カナデだって、本当は不安なはずなのに。わたしが、勝手に巻き込んだんだ。カナデはもう、吹奏楽なんてやりたくなかったかもしれないのに。自分の傷に、わたしが触れてしまったのかもしれないのに。――もし、またカナデが傷ついてしまったら……わたしは、どうしたらいいんだろう。罪悪感と後悔が心の中を渦巻いて、足元がどんどん重くなる。俯いたまま歩いていたとき、不意に名前を呼ばれた。
「ミナ」
声に顔を上げると、いつの間にかカナデは足を止めて、わたしの方を見ていた。その黒い瞳は、まるで全てを見透かすようにわたしの奥を覗き込んでくる。だけど――そのまなざしは、どこまでも優しかった。
「……一緒に、頑張ろうね」
そう言って、わたしの手をそっと包むように握る。その手は少しだけ熱を帯びていて、微かに震えているようだった。
――ああ、カナデも、怖いんだ。
でも……それでもカナデは、わたしの手を握ってくれた。大丈夫だよと、掌を通して伝えてくれた。その優しさが、あまりにも真っ直ぐで、どうしようもなく胸に刺さる。わたしは、カナデのそういうところが……好きなんだ。きっとそれはわたしだけじゃなくて……カナデは誰にでも優しい人だと分かっているのに。だけど、それでも――“この手を、今、わたしだけが握っている”と思うと、息が詰まりそうになるくらいに、嬉しかった。
「……うん。カナデと一緒なら、できるって信じてる」
精一杯の笑顔を浮かべて、わたしはその手を握り返す。バス停へ向かう道のり、わたしたちは無言だった。だけど、繋いだ手のぬくもりが、ずっと確かにそこにあった。
バスに乗ってからも、わたしもカナデも、ほとんど言葉を交わさなかった。ただ、景色を眺めながら、そっと手を繋いでいた。時折、カナデの指先がわたしの掌をなぞるように動く。まるで、わたしが隣にいることを何度も確かめているみたいに。その仕草が、優しくて、苦しくて。握った手を、離したくなかった。ずっと、繋いでいて欲しかった。だって、こんなふうに寄り添えたら――少しだけ、怖くなくなる気がしていたから。