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第十四話 掌の冷たさ(4)

***


「……美奈ちゃんも奏も、急にごめんね!」


 夕暮れのオレンジが、カフェの窓を染める頃。わたしたちが並んで座っていたテーブルに、ミルクティーを持ったほのかが小走りでやってきた。いつもはきちんと整えられている長い髪が、今日はところどころ跳ねていて。頬にはうっすらと紅が差し、肩が小さく上下している。


 たぶん、学校から全力で走ってきたのだろう。それだけで、心の奥に小さな違和感が引っかかった。


「ほのかちゃん……部活は、大丈夫だったの?」


「うん、大丈夫大丈夫! ふたりとも、来てくれて……ありがとう」


 穏やかに微笑んだ顔は、いつも通りに見える。だけどその笑顔の奥に、いつもとは違う何かが、確かにあるような気配がした。椅子を引いたほのかは、ぱたんと鞄を横に置き、ミルクティーを一口飲む。喉を潤すと、まっすぐわたしたちの方に顔を向けた。


 一瞬の沈黙。その目が、わたしとカナデを交互に見つめる。そして、何かを決めたように――ほんの少しだけ、息を吸い込んだ。


「……実はね、美奈ちゃんと……奏に。お願いしたいことがあって」


 声は、いつもの柔らかさのまま。だけど、そこに混じった決意の色が、明らかに違っていた。一気に空気が張り詰めるのを感じて、わたしは背筋を伸ばす。視線の端で、隣に座るカナデもそっと表情を引き締めたのがわかった。


 ほのかは鞄からスマートフォンを取り出し、ロックを解除する。


「まずは、これを見て欲しいの」


 画面がこちらに差し出され、わたしとカナデは同時に身を寄せる。そこに表示されていたのは――。


「市民吹奏楽団、マリンウィンド……」


 わたしは、映し出された文字を読み上げる。白い背景に、青いロゴ。カナデが画面をスクロールすると、様々な年代の人たちが笑顔で楽器を構えている集合写真が出てくる。楽しそうな雰囲気が伝わってくるその画像を見ているうちに、どこか遠い世界のもののような懐かしさと、得体の知れないざわつきが心の奥を撫でていった。


「私ね、今この楽団にも入っているんだ。冬に、クリスマスコンサートがあるんだけど……実は、トランペットが……足りなくて……」


 最後の言葉だけ、ほんの少し小さくなった。視線も下に落ちて、眉尻がわずかに下がる。それでも――すぐに顔を上げたほのかは、両手をぱちんと合わせ、深々と頭を下げた。


「ふたりに、助っ人として入って欲しいの! お願い……!」


「ほっ……ほのかちゃん……! 顔上げて……!」


 ほのかのその声は明るくて、でもどこか――必死だった。思わず背筋がびくりと跳ねて、わたしは無意識に身体を引いていた。


 一方、カナデは無言でスマートフォンを手に取り、画面をまじまじと見つめていた。眉間に寄った皺は、無関心でも冷淡でもない。どこか――迷っているような、懐かしさに触れているような、複雑な空気を纏っていた。


「……そんなの、東高の吹部の子に頼めばいいじゃん」


 カナデの声は低く、淡々としていた。だけどその奥に、明確な拒否の色が滲んでいた。その正論に、ほのかの肩が一瞬だけ揺れる。けれど、次の瞬間にはまた笑顔を作っていた。それは無理やり浮かべたような笑顔で、言葉もどこか早口になる。


「そ……それはそうなんだけど……! ほら、遠くに住んでる子ばっかりで、なかなか練習に来てもらえなさそうなんだよね……。だから……どうかな……?」


 わたしの方へと向けられた視線が、ぐっと刺さってくる。きらきらとした目。だけどその奥には――切実な何かが宿っていた。だけど……。


「ええと……わ、わたしは……! まだ全然下手だし……吹奏楽なんて……」


 声が震えた。自分でも、何を言っているのかわからない。ただ、全身で無理だと叫んでいた。両手を膝の上で握りしめ、視線を落とす。


「美奈ちゃん、何言ってるの! 美奈ちゃんのレベルなら、全然大丈夫! それに、初心者の人もいるから、心配しないで……!」


 そう励まされて、嬉しかった。嬉しかった、はずなのに――心の中では、何かがどろどろと溶け出していた。


 トランペット歴数ヶ月のわたしなんかが入って、ちゃんと吹けるわけがない。周りの人に迷惑をかけるだけ。カナデやほのかみたいに、楽譜も読めない。拍も数えられない。


 怖い。無理。絶対に、無理。


 自分の弱さが、恥ずかしくて仕方なかった。そして、その沈黙のすき間を縫うように――ほのかが視線を、カナデへと移す。


「じゃあ、奏は? ……奏は、どう思う?」


 柔らかく微笑む声にはほんの少しだけ、震えが混じっていた。それは、優しさに見せかけた、懇願のようで。祈るように、でも逃がさないようにしている姿に――わたしの胸が、一瞬だけ締め付けられる。


「……やっぱり、吹奏楽は……嫌?」


 ほのかが問いかけた時、カナデは動かなかった。俯いたまま、テーブルの木目を見つめたまま、まるで時が止まってしまったようだった。やがて口を開いたその声は、わたしは初めて聞く――恐ろしいほど、静かな声だった。


「……私は合奏向きじゃないの、ほのかも知ってるでしょ」


 その言葉が落ちた瞬間、カフェのBGMだけがやけに遠くなった。声は落ち着いていて、穏やかで――なのに、息が止まるほど痛かった。言葉そのものに、刺はなかった。でも、その奥にあったものは……過去に引きずり戻されるような、呪いだった。


――もうやめて。放っておいて。繰り返したくない。壊れる前に、離れたい。私はただ、自由に演奏してたいだけなのに。


 そんな言葉が透けて見えるようで――息が、ぎゅっと苦しくなる。


 わたしの隣にいるカナデは、今もわたしの知らない、冷たい時間に縛られている。あの孤独な音の中に――閉じこもったままのカナデ。


 ほのかはその言葉に反応せず、静かに目を伏せた。そこには悔しさも、無力さも――全部を飲み込んだ沈黙があった。


 そして、ようやくわたしは気づいた。これは、ただの人数合わせじゃない。ほのかは、松波奏を取り戻そうとしている。


 カナデのトラウマになった、中学校の吹奏楽部。あの過去を乗り越えて、もう一度合奏を、音楽を好きになってほしい。あの日失った、音楽の喜びを。誰かと一緒に音を重ねるあの感覚を――きっともう一度、カナデに感じてほしくて。


 そして、そのためにわたしが必要だと思ってくれた。きっと、カナデがひとりだったら、絶対に受けないから。


『やっぱり……美奈ちゃんとなら、大丈夫かな……』


 ほのかの言葉がよみがえる。わたしと一緒なら、カナデが吹いてくれるかもしれない――そんな、ほのかの願い。そのためにわたしを巻き込んでまで、この場を作ってくれたんだ。


 気づいた瞬間、心臓がばくんと跳ねた。怖かった。そんなの、わたしには無理。できない。だってわたしはただの初心者で、何の技術も自信もない。いつもカナデに助けられてばかりで、ちゃんと自分の足で立ったことなんて、ほとんどない。だけど。


――大丈夫、ミナならできるよ。


 いつもわたしを引っ張ってくれる、カナデの真っ直ぐな言葉が頭に浮かぶ。このままわたしが断れば――きっとカナデは、吹奏楽には戻らない。それで過去を避けることができるなら、それはきっと、正しいことなのかもしれない。


 でも、もし……もしも。カナデ自身もどこかで、まだ挑戦してみたいと願っていたら? あの日、カナデがわたしに手を差し伸べてくれたように。今度はわたしが――あの日のカナデに、手を伸ばすことができるなら?


 震える指先で、マグカップを包み込む。ほんのりとした温もりが、わたしの中の小さな決意に火を灯した。


 怖い。怖くて仕方ない。だけど、苦しそうなカナデの顔が、頭から離れない。わがままかもしれないし、ひとりよがりかもしれない。それでも――わたしはせめて、カナデのために何かをしたかった。


「…………わたし、やってみようかな」


 それは、自分の声じゃないみたいだった。だけど確かに――わたしの口から零れた言葉は、空気を震わせてふたりの元へ届いていった。


 カナデが、はっと顔を上げる。わたしを見つめたその黒い瞳に、明らかな戸惑いが浮かんでいた。


 心臓が、うるさいほどに跳ねている。怖かった。震えるくらい、怖かった。自信なんて、ひとかけらもなかった。だけど――。


「でも、ひとりじゃ、不安だから……。カナデも一緒に、来てほしい。ねえ、カナデ……わたしと一緒に、やってくれないかな……」


 言いながら、そっと手を伸ばす。テーブルに置かれていたカナデの手に、自分の手を重ねた。その手は血の気が引いたように冷えていたけれど――それでも確かに、ここにあった。


 この手を、わたしは離したくない。わたしの願いを、震える掌越しに届けたかった。


「ミナ……」


 カナデが眉をひそめたまま、声を漏らす。わたしの手の中のその指が、わずかに震えていた。いつもの自信に溢れた、眩しいカナデからは想像もできない――かすかな迷いが、触れた指先から伝わってきた。


 カナデは、まだ迷っている。


 「自分は合奏向きじゃない」と自分に言い聞かせて、過去の痛みを封じ込めて――ずっと、ひとりで音を吹いてきた。それがどれだけ寂しかったか、わたしにはわからない。だけど今、こうしてわたしの手を握り返さないこの震えが――どれだけ怖いものに立ち向かおうとしているのかを、物語っていた。


 わたしなんかが無理やり連れ出していいのか、わからない。それでも……それでも。


 わたしはカナデの手を、どうしても離したくなかった。


 カナデが静かに息を吸って――吐いた。


「……私は協調性がないからね。また、中学みたいになるかもしれないって……正直、怖いよ」


 その声は、驚くほど小さくて、弱々しくて。こんなカナデを、わたしは初めて見た。


 強くて、眩しくて、憧れで。いつだって前を向いていたカナデが――今、わたしの前で、自分の弱さをさらけ出している。そのことに息が苦しくなる。それは愛おしいとか、そんな綺麗な言葉じゃなくて――苦しくて、切なくて、でもそれでも、そばにいたくて仕方なかった。


 だけど――そのすぐあとに続いた言葉は、ほんの少しだけ、柔らかかった。


「……でも、ミナが隣にいてくれるなら……大丈夫かもしれないね」


 それは祈りのようでもあって、決意のようでもあって。少しだけ震えて、だけど確かに前を向こうとする声だった。


 ゆっくりと、視線が上がる。黒く深いその瞳が、わたしを真っ直ぐ見つめていた。


「……分かった。ミナがそう言うなら、やってみよう」


 その瞬間、わたしの中で何かが、音を立ててほどけた。嬉しくて、泣きそうで、でも何より――カナデのその顔が、ちゃんと前を向いていることが嬉しかった。思わず、ぎゅっとその手を握りしめた。ほのかが静かに息を吐いて、安心したように笑っていた。


――わたしが、吹奏楽をやるなんて。きっと、ほんの少し前のわたしなら、こんなことは絶対に言えなかった。


 だけど今、カナデのもう片方の手が、そっとわたしの両手を包み込む。その手はまだ少し冷たくて、けれど、その冷たさが――まだ怖いのに、それでも離さないと言ってくれているみたいだった。


「……大丈夫だよ。カナデなら、できる。わたし……カナデの隣にいるから。カナデも……わたしの隣に、いてね」


 声が震えてもいい。不安があってもいい。それでも――この気持ちは、本物だった。わたしがゆっくりとその手をさすると、カナデはかすかに笑って、頷いてくれた。


 もう、わたしはあなたの後ろ姿だけを追いかけるだけじゃない。これからは、ちゃんと……あなたの隣で、歩いていきたい。


 カップの中のカフェラテが、ふるふると揺れる。店内に流れる静かな音楽と混ざり合いながら、わたしの不安も、過去の痛みも、全部この手に預けて――新しいわたしたちの音が、ここから始まっていくようだった。


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