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第十四話 掌の冷たさ(4)

***


「美奈ちゃんも奏も、急にごめんね!」


 夕方、駅前のカフェにカナデと並んで座っていると、アイスココアを持ったほのかが慌てたようにやって来た。いつもは整えられている長い髪が少し跳ねていて、頬はうっすらと赤い。息も少し上がっていて、きっと学校から急いで来たのだろう。


「ほのかちゃん……部活は大丈夫だったの?」


「大丈夫大丈夫! 二人とも来てくれて、ありがとう」


 にこっと笑いながら椅子を引いたほのかは、手早く鞄を横に置き、アイスココアをひと口飲む。喉を潤したあと、わたしたち二人を交互に見つめ、少しの逡巡ののちに、何かを決意するように真っ直ぐ顔を上げた。


「……実はね、二人に、お願いしたいことがあって」


 その声は、いつもの柔らかいトーンのままなのに――確かな意志の色が混じっていた。笑顔の下に隠れた真剣さに、思わずわたしの背筋が伸びる。ほのかは鞄からスマートフォンを取り出し、スライドロックを解除する。


「まずは、これを見て欲しいの」


 そう言って差し出された画面を、カナデと一緒に覗き込む。


「……市民吹奏楽団、マリンウィンド……」


 わたしは、映し出された文字を読み上げる。白地に青いロゴ。カナデが指先で画面をスクロールしていくと、にこやかに楽器を構える老若男女の集合写真が並んでいた。


「私、今この楽団にも入っていて。冬にクリスマスコンサートがあるんだけど……トランペットが、足りなくて……」


 言い終えたほのかは、少しだけ目線を逸らす。その頬には、戸惑いのような気配が浮かんでいた。それでも、わたしたちの視線を真正面から受け止めるように、次の瞬間――両手を勢いよく鳴らし、深く頭を下げた。


「二人に、助っ人として入って欲しいの! お願い!」


「ほっ……ほのかちゃん……! 顔上げて……!」


 その勢いに押されて、わたしはつい身を引いてしまう。横にいたカナデは、ほのかのスマートフォンを手に取りながら、静かに眉をひそめていた。


「……そんなの、東高の吹部の子に頼めば良いじゃん」


 その一言に、ほのかの表情が一瞬だけ揺れる。けれどすぐに微笑みを戻して、どこか言い訳めいた口調で続けた。


「それはそうなんだけど……! 遠くに住んでる子ばっかりで、練習に来てもらえなさそうなんだよー……ね、どうかな?」


 ほのかはわたしの目を、きらきらと真っ直ぐに見つめてくる。その瞳の奥には、ただの人数合わせではない何かが――必死な祈りのようなものが宿っている気配を感じた。だけど……。


「ええと……わたしは……まだ全然下手だし……吹奏楽なんて……」


 気圧されるように、声が出た。思わず両手を膝の上で握りしめ、わたしは俯く。


「美奈ちゃん、何言ってるの! 美奈ちゃんのレベルなら全然大丈夫! それに、初心者の人もいるから心配しなくていいよ……!」


 明るく言ってくれるその声は、嬉しい。嬉しかったけれど――胸の中には、黒く重たいものがじわじわと広がっていた。トランペット歴数ヶ月のわたしが、吹奏楽なんて。音を揃えるなんてきっと無理だし、周りの人に迷惑をかけるだけ。それに、吹奏楽団って……本格的な大人の人たちが集まる場所でしょ? 練習についていけるかも分からない。カナデやほのかのように、ちゃんと楽譜が読めるわけでもない。拍子の数え方だって、ちゃんとは分かっていないのに……無理だよ。絶対に。不安が次から次へと膨れ上がって、言葉が喉に詰まる。そんなわたしの沈黙をよそに、ほのかはカナデへと視線を移した。


「じゃあ、奏は? ……奏は、どう思う?」


 ほのかはロングヘアを揺らし、カナデを見た。その声には、どこか痛みを隠すような優しさがにじんでいるようで――わたしの胸が、一瞬だけ締め付けられる。


「……やっぱり、吹奏楽は、嫌?」


 ほのかが問いかけた時、カナデは動かなかった。俯いたまま、テーブルの木目を見つめたまま、まるで時が止まってしまったようだった。やがて口を開いたその声は、わたしは初めて聞く――恐ろしいほど静かな声だった。


「……私は合奏向きじゃないの、ほのかも知ってるでしょ」


 その言葉に、わたしの心臓がぎゅっと縮こまる。言い方はどこまでも穏やかだったけれど――その奥に、鋭い棘が潜んでいる気がした。それはまるで、「もう繰り返したくない」と願う、誰かの呪文のように聞こえた。わたしの目に映るカナデは、今も――わたしの知らない、冷たい時間にまだ縛られている。ほのかはわたしと目を合わせないまま、そっと視線を落とした。その沈黙が、何よりも雄弁だった。わたしは黙って、ただ二人のやりとりを見守ることしかできなかった。


 だけど――ふと、気が付いてしまった。これは、たぶん……ただの人数集めなんかじゃない。ほのかはきっと、カナデをもう一度――吹奏楽に戻したいんだ。カナデのトラウマになった中学校の吹奏楽部……あの過去を乗り越えて、もう一度合奏を、音楽を好きになってほしい――そのために、わたしを巻き込んでまで、この場を作ってくれたんだ。


 マグカップを両手で握りしめる。まだ温かいその感触に、震える指先を落ち着かせながら、自分の気持ちを見つめ直す。怖い。わたしにできるわけがない。わたしはただの初心者で、何の技術も自信もない。いつもカナデに助けられてばかりで、ちゃんと自分の足で立ったことなんて、ほとんどない。だけど。初めて会った日の、カナデの力強い横顔が浮かぶ。わたしが断れば――きっとカナデは、このまま吹奏楽には戻らない。それで過去を避けることができるなら、それはきっと、正しいことなのかもしれない。でも、もし……もしもカナデ自身もどこかで、また挑戦してみたいと思っていたとしたら? もし、今度はわたしが――あの日のカナデに、手を伸ばすことができるなら?


 胸の奥で、何かが小さく震えた。


「…………わたし、やってみようかな」


 そう呟いた声は、自分の声じゃないみたいだった。でも確かに、言葉は空気を震わせて、二人のもとへ届く。カナデがはっと息を呑み、驚いたように顔を上げる。わたしを見つめるその瞳に、確かな戸惑いが滲んでいた。怖かった。自信なんて、どこにもなかった。それでも――


「でも、一人じゃ不安だから……カナデも一緒に来てほしい。ねえ、カナデ……わたしと一緒に、やってくれないかな」


 そう言って、そっとテーブルの上にあったカナデの手を握った。少し冷たかったその手に、自分の両手を重ねて、ぎゅっと包み込む。言っちゃった。不安しかないけど、きっとカナデと一緒なら頑張れる。それに……わたしはカナデに、こんな顔をさせたくない。もしカナデが昔みたいに失敗しても、今度はわたしが支えてみせる。だからお願い。もう一度、わたしと一緒に――音を奏でて。


「ミナ……」


 眉をひそめていたカナデは、しばらく黙り込んだ。わたしの手の中の、その指がほんの少し震えている。いつもの自信に溢れた、眩しいカナデからは想像もできない――かすかな迷いが、掌越しに伝わってきた。


 “私は合奏向きじゃない”――そんな言葉を、どれだけ飲み込んできたんだろう。カナデはどれだけ一人傷ついて、誰にも言わずに、それでも音楽を続けてきたんだろう。カナデは、迷っていた。過去に戻るのが怖いんだ。きっとまだ……傷が塞がってなんかいない。わたしが手を握っても、カナデは今もどこかで、自分を責めている。カナデ、ごめんね。わたしの我がままに巻き込んで。だけど、それでも。――わたしはカナデの手を、離したくなかった。


 カナデが静かに息を吸い、細く吐き出す。そして、ぽつりと呟いた。


「……私は協調性がないからね。また、中学みたいになるかもしれないって……正直、怖いよ」


 その声は、胸に突き刺さるほど弱かった。カナデの強さを知っているからこそ、わたしの胸がぎゅっと詰まる。でも、それに続いた言葉は――かすかに笑っていた。


「……でも、ミナが隣にいてくれるなら……大丈夫かもしれない」


 そして、ゆっくりと視線を上げる。黒い瞳が、わたしを真っ直ぐに見つめていた。


「……分かった。ミナがそう言うなら、やってみよう」


 その声はまだ少し不安げで、それでも確かに前を向いていた。わたしは思わず、カナデの手をぎゅっと握りしめる。その表情を見て、ほのかも安心したように柔らかく笑った。わたしが、吹奏楽。本当は、不安で手が震えそうだった。吹奏楽なんて、そんなの、わたしには無理。一時期前のわたしだったら、絶対にそう言って断っている。だけどカナデはもう片方の手で、わたしの両手を包み込んでくれた。その掌はまだ冷たい。だけど――もう、怖くない。


「……大丈夫だよ。カナデなら、できる。わたし……カナデの隣にいるから。カナデも……わたしの隣に、いてね」


 言葉に乗せて、そっとその手をさする。カナデは静かに、頷いてくれた。わたしはもう、カナデの後ろ姿を追うばかりじゃなくて――隣で、ちゃんと歩きたい。店内に流れる音楽が、静かにカップの表面を震わせていた。わたしの不安も、過去の痛みも、全部この手に預けて――これから、もう一度、新しい音を紡いでいくんだ。



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