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第二話 響きあう放課後(2)

「……本当に、わたしでいいの?」


「うん。……ミナに、持っていて欲しいんだ」


 その言葉に、胸の迷いがふっと軽くなった。楽器を握りしめたまま「ありがとう」と呟くと、カナデは満足げに笑ってくれた。


「昨日のよりは、初心者用で吹きやすいはず。すぐに慣れるよ。じゃあ、音出しから始めようか」


 ケースに付属したマウスピースを抜き取り、楽器に付けてみる。昨日と同じように吹いてみると、瀕死の動物みたいな音がかすかに響いた。うろたえていると、カナデが隣にぴったり寄り添い、コツを教えてくれる。丁寧な指導のおかげで、掠れた音がようやく一つ、まともな音に変わった。「それ、ドの音だよ」とカナデが笑い、わたしの顔を覗き込む。黒い瞳と目が合って、心臓が大きく音を立てた。


 しばらく音を出していると、唇の周りが疲弊して、鈍い痛みが頬にまとわりついていた。せっかく鳴らせるようになった音も、掠れた空気の音に変わってしまう。わたしがバテたのを見透かして、カナデはここまでにしようかと言って烏龍茶を差し出した。


「次は別の音を出せるよう練習してみよう。ミナってさ、音符読める人?」


 その質問に、少しばかり戸惑う。小学校の頃、親に無理やり行かされていたピアノ教室を思い出した。結局家の都合ですぐに辞めてしまったけれど、基本的なものはまだ覚えていると信じたい。


「たぶん……?」


「トランペットの楽譜はト音記号しか使わないから、そこさえ読めれば大体大丈夫だよ。これは運指表ね」


 カナデが鞄から取り出した紙には、各音の下に1から3までの数字が丸に囲われて記載されていた。音によって数字が黒かったり、白かったり。なにこれと思ってカナデを見ると、綺麗な指先が紙の上をそっと指す。


「数字はピストンの番号だよ。口に近い方から、1番で……黒は押す、白は押さない。だから例えば……この、レの音は1番と3番を押せば鳴る」


 カナデの説明に、なるほどと頷く。ピストンの組み合わせで音が変わるのなら、覚えることは少なそう。そのくらいなら、わたしでも覚えられるかも。そもそもトランペットって、押すところが3つしかないのに色んな音が鳴るなんて……知らなかったな。


 唸りながら運指表を見つめていると、突然横からマイクが差し出された。驚いて目を瞬かすと、カナデが白い歯を覗かせて笑っている。


「じゃ、時間もまだ余ってるし……ちょっと歌っていく? ミナから選んでいいよ」


「えっ」


 ついマイクを受け取ってしまって困惑していると、カナデがソファーから立ち上がった。充電されていたタブレットの一台をわたしに寄越し、もう一台でテレビを操作する。死んでいたテレビの音が活気を取り戻し、スピーカーから楽しげな音楽が流れ出した。


「そんな、わたしカラオケとか……歌える曲ないし……」


 受け取ったマイクをテーブルに戻し、わたしはスカートから覗いた自分の太腿を見つめてしまう。電灯の灯りを受けて、なんだか不健康そうな色をしていた。タブレットに映し出されている丸文字が、わたしの心を辟易とさせる。今までも、付き合いで行ったカラオケで、歌うように言われたことは何度かあった。それでも、わたしは歌えなかった。


「……好きな音楽とか全然ないし、何を歌っていいのかも分からない……みんなが知らない曲を歌って、退屈させるのも嫌で……」


 スカートの上に置いた両手をぎゅっと握りしめて、俯いてしまう。「ミナ」と呼ばれて顔を上げると、少し困ったような笑顔を浮かべているカナデと目が合った。


「……ミナはさ、周りのこと気にし過ぎじゃない? ミナが好きにしてるの、私は好きだよ。少なくとも私の前では、何も気にしなくていいよ」


 その言葉が、わたしの凝り固まった心を解していくようだった。握りしめたままの掌の力が、ふっと緩んでいく。カナデはソファーにもたれながら、慣れた手付きで機器を操作した。短い電子音の後、天井に張り付いていたスピーカーから盛大な音楽が流れ出す。テレビには最近流行りの曲のタイトルが、派手なフォントで映し出されていた。


「この曲、結構好きなんだよね。ミナは知ってる?」


「えっ? たぶん……サビくらいは……?」


「よし、じゃあ一緒に歌おう」


 カナデがマイクを手に取り、わたしに向ける。ほらほらと押し付けられ、仕方なく両手で握りしめた。音楽がサビに突入するとカナデはわたしと目を合わせ、綺麗な声で歌いだした。歌の上手さに驚いていると、「ほら、ミナも」と促される。わたしは視線を外し、口先だけでぼそぼそと歌詞を刻む。本当は人前で歌うなんて、恥ずかしくて仕方ない。だけど、カナデと一緒なら……。わたしが歌っているのを確認したカナデは嬉しそうに目を細め、声量を上げた。カナデの伸びやかな歌声が、わたしのことをリードしようとしてくれている。


 そのままカナデはわたしが知っている流行りの曲を何曲か入れ、時間が来る頃にはすっかりわたしも歌うことに慣れてしまっていた。なんだか身体の中に溜まっていたもやもやとした感情が、声に乗って多少発散されたような気がしていた。


「ね、ミナ。……気持ちよかったでしょ?」


 部屋を出るとき、薄暗い部屋の中でカナデはからかうように笑った。まんまと策略にはまってしまった自分が恥ずかしくて、わたしは負け惜しみのような声を上げることしかできなかった。


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