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第二話 響きあう放課後(2)

「……本当に、わたしでいいの?」


 声が震えた。わたしは、怖いんだ。だけど――わたしの中に芽生えたこの気持ちが勘違いじゃないと、誰かに……カナデに、肯定してほしかった。


「うん。……ミナに、持っていて欲しいんだ」


 その言葉は、まるで鍵のように――胸の中の迷いを、そっとほどいた。言葉を噛みしめるようにゆっくりと、わたしは頷く。


「……ありがとう」


 そう呟くと、カナデは満足そうに笑った。


「昨日のよりは、初心者用で吹きやすいはず。すぐに慣れるよ。じゃあ、音出しから始めようか」


 そう言って、カナデはケースに付属していたマウスピースを手際よく取り出し、わたしに差し出す。震える手で受け取って、まだ手の温度が残る金色の本体にマウスピースを差し込んだ。


 その動作だけで、掌が緊張にじっとりと濡れた。


 ――これでいいの? 本当に?


 昨日、ほんの少しだけ音が出せたのは、カナデがそばにいたから。あれもまぐれだったんじゃないかという不安が、胸の奥でざわつく。


 意を決して、そっと唇を当てる。息を吸い込み、吹き込んでみる。


 するとかすれた音が、頼りなく空気の中に消えた。まるで、瀕死の動物の鳴き声みたいな、情けない音。


「やだ、やっぱり無理……!」


 わたしが思わず身を引きそうになると、すぐにカナデが隣に滑り込んでくる。その距離は近くて、慣れない香りと温度に、わたしの肩が硬直した。


「ミナったら、大丈夫だって。鳴らせたじゃん。じゃあさ、口の形をちょっと意識して……そうだな。ここ、少しだけ締めてみて」


 カナデはわたしの顎の下あたりを指で示しながら、柔らかい声で説明する。不思議と命令ではなく提案のように聞こえるその口調に、わたしは抵抗する理由を失いかけていた。


 もう一度、吹く。さっきよりも少しだけ、まっすぐな音になった。


「おっ、もう鳴った。今のが、ドの音だよ」


 カナデが嬉しそうに笑いながら、わたしの顔を覗き込む。黒く深い瞳がわたしを射抜いてきて、思わず視線を逸らした。胸の奥が、トランペットの音よりずっと鋭く跳ねるようだった。


「ミナ、すごいじゃん。ちゃんと鳴ってるよ。できてる」


 その声はどこまでも真っ直ぐで、嘘のない響きをしていた。だけど、素直に受け取るにはまだ怖くて、わたしはただ黙って頷くことしかできなかった。


 しばらく繰り返していると、唇の周りがじんわりと痺れてくる。どれだけ集中しても、せっかく鳴らせるようになった音はくしゃっと崩れて、空気に飲まれていった。


「ははっ、疲れた? 最初はすぐ、バテるからね。そういう時に、無理に吹いたらダメなんだ。今日はここまでにしようか」


 カナデが当然のようにわたしの烏龍茶を手にして、差し出してくる。「ありがとう」と受け取りながらも、その無意識の距離の近さに、胸がそわそわと波打った。


「次は、別の音を出せるよう練習してみよう。ミナってさ、音符読める人?」


 不意の質問に、一瞬答えに詰まる。頭の奥に、小学校の頃に無理やり行かされていたピアノ教室の記憶がうっすらと蘇った。嫌いではなかったけれど、家の都合で長くは続かなかった。覚えているような、もう忘れてしまったような――そんな曖昧な感覚だった。


「たぶん……? ちょっとくらい、なら」


「トランペットの楽譜はト音記号しか使わないから、そこさえ読めれば大体大丈夫だよ。これは運指表ね」


 カナデが鞄から紙を一枚取り出すと、それをわたしの前に広げた。数字と音符が並んでいる図――見慣れない記号に、一瞬たじろぐ。意味がわからず視線を上げると、カナデの細い指先が、すっとその紙をなぞった。


「数字はピストンの番号。口に近い順に1、2、3ってね。黒い丸は押す、白は押さない。たとえば……このレの音なら、1番と3番を押すと鳴るよ」


 すらすらと説明する口調は、どこまでも優しい。けれど、やっぱりどこか遠くて――音楽という、自分には触れたことのない世界からやってきた言葉のように感じた。


 でも、指は3つしかない。押す場所は、少ないんだ。思っていたよりもずっと、単純なのかもしれない。だけど、それでどうやって、色々な音を出しているの?


 なんて思っていたわたしの膝の上に、ぽんと何かが乗せられた。それは、突然差し出された、マイクだった。瞬きをすると、カナデが茶目っ気たっぷりに笑っていた。


「じゃ、時間もまだ余ってるし……ちょっと歌っていく?」


「えっ……」


 咄嗟に手がマイクを受け取ってしまって、後悔が追いかけてくる。まさかトランペットの練習に来たつもりが、歌までやるなんて聞いてない。


 戸惑っている間にカナデはすでに立ち上がって、操作パネルに手を伸ばしていた。慣れた動きでタブレットを起動し、テレビがにわかに明るさを取り戻す。


「はい、ミナから選んでいいよ」


 わたしの前に、タブレットがすっと差し出された。何気ない仕草なのに、その軽やかさが、わたしには少し眩しかった。


 わたしがどれだけ戸惑っていても、カナデはそれに気づかないふりをしているのか、それとも本当に気にしていないのか。どちらにしても、その自然体は無敵すぎて――心地よい反面、少しだけ怖くもあった。わたしは俯いて、小さく呟く。


「そんな、わたしカラオケとか……得意じゃないし……」


 手の中のマイクが、どこまでも重い。そっとテーブルに戻すと、膝の上に視線が落ちた。スカートから覗く自分の足が、蛍光灯の白に照らされて妙に頼りなく見えた。


 タブレットに映し出されている丸文字が、わたしの心を辟易とさせる。選ばれるのを待つ、無数の楽曲たち。だけど、どれもわたしとはかけ離れているように思えた。


「……好きな音楽とか、全然ないし。何を歌っていいのかも、わからない……。みんなが知らない曲を歌って、退屈させるのも嫌で……」


 指先が、スカートの生地をぎゅっと掴む。誰も何も言っていないのに、勝手に自分でハードルを上げて、自分の殻に閉じこもってしまうのは――もう、癖になっている。


「ミナ」


 名前を呼ばれて、顔を上げた。カナデは、少し困ったように笑っていた。だけどその笑顔は、わたしをからかうでもなく、責めるでもなく、ただ――わたしのためのものだった。


「……ミナはさ、周りのこと気にしすぎじゃない? ミナが好きにしてるの、私は好きだよ。少なくとも、私の前では……何も気にしなくていいよ」


 その言葉が、ゆっくりと胸に染み込んでいく。「私の前では」なんて。どうしてそんなふうに、優しく言ってくれるんだろう。


 ぎゅっと握っていた手の力が、ふっと抜けた。どこか張り詰めていた空気が、ようやく緩んだ気がした。


 カナデはソファーにもたれながら、機械を器用に操作する。短く電子音が鳴って、次の瞬間、天井のスピーカーから明るい音楽が弾けた。テレビの画面には最近よく聞く流行りの曲名が、派手なフォントで映し出されている。


「この曲、結構好きなんだよね。ミナは知ってる?」


「えっ……? たぶん……サビ、くらいは……?」


「よし、じゃあ一緒に歌おう」


 何も聞いてないようなテンションで、カナデがマイクを手渡してくる。断る暇もなく、押しつけられるようにして受け取ってしまった。


 やがてイントロが終わり、メロディがサビへと突入する。カナデがわたしと目を合わせて、自然に、そして少し照れくさそうに歌い出す。伸びやかで、真っ直ぐな声。上手い。だけどどこまでも飾らない音が、すとんと耳に落ちてくる。


「ほら、ミナも」


 そっと顔を覗き込まれて、促される。わたしは視線を逸らしたまま、恐る恐る口を動かした。小さく、ぼそぼそと。音になっているのかも、わからないくらいの声だった。でも――わたしは確かに、歌っていた。


 カナデはその様子を確認して、目を細めて嬉しそうに頷いた。そして、少しだけ声を張って、わたしの声に寄り添うように重なってくれる。音が、繋がった。


 ――なんだろう、この感覚。誰かと一緒に声を出しているだけなのに、ほんの少しだけ、心が軽くなる。


 そのあとも、カナデはわたしが知っていそうな曲をいくつか選んでくれて、わたしは気づけば、何度もマイクを持ち直していた。最初はかすれたような声しか出せなかったのに、終わる頃には、少しだけ楽しくなっていた。胸の奥にずっと溜まっていた何か――うまく言葉にならないもやもやが、声に乗って少しずつ、外にこぼれ落ちていくような気がしていた。


 部屋を出るとき、カナデが振り返って言った。


「ね、ミナ。……気持ちよかったでしょ?」


 それは、茶化すような笑顔だった。だけどどこか優しくて。わたしは思わず顔を背けて、小さく頷くことしかできなかった。それが照れ隠しだってことくらい、自分でもわかっていた。

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