第十四話 掌の冷たさ(2)
「ええと……か、カナデ」
勇気を出して名前を呼ぶと、カナデはほんの少しだけ肩を震わせた。振り返るのが遅れる。それからようやく、髪を乱暴にくしゃくしゃとかき回して、顔を背けるように息を吐く。その横顔には、いつもの余裕なんて一片もない。目元が硬くて、口元だけが落ち着かなくて――まるで、感情の置き場所がわからない人の顔だった。
「……ごめん」
ぽつりと乾いた声で、カナデはそれだけ呟いた。まぶたが小さく震えた後、カナデはもうひとつ息を吐く。
「ミナに……こんなとこ、見せるつもりじゃなかったのに」
言いながら、カナデは眉間に皺を寄せる。自分に腹を立てているみたいな表情で、でも、どこか自分に怯えていた。
「怖かったでしょ、ごめんね。ほんと……駄目だな、私って……」
その最後の一言は、呟きに近かった。少しかすれていて、強がっているのに、強がりきれていない。その痛々しさに、わたしの目の奥が熱くなる。
「カナデ……大丈夫だよ……?」
できるだけ柔らかく言いながら、わたしはそっと一歩だけ近づいた。驚かせない距離で、逃げ道を残した距離で。カナデは目線を落としたまま、微動だにしなかった。
「もしかして……怒ってる? 何か、いやなことでも……あったの……?」
問いかけた瞬間、カナデの瞳が一瞬だけ大きく見開かれて、すぐにふっと落ちる。目を合わせられない。それだけで、答えが出てしまう気がした。
怒っているんじゃない。たぶん、違う。だけど怒りみたいなものが出てしまって、そのことに怯えてる――そんな顔に見えた。
カナデは大きく息を吐き直すと、背後の扉にもたれかかるようにして――ずるずると床にしゃがみ込んだ。肩を落として、膝を抱える。その姿は、驚くほど小さかった。迷子のようで、見ているだけで胸が苦しくなる。
「……自分でも、よく分からないんだ。なんか……」
声が、ぎりぎりの音量で落ちてくる。張りがない。いつもの勢いもない。ただ戸惑いと不安が、ぽつぽつと滲んでいた。
「ミナとほのかが、一緒にいるのを見て……。別に怒ってるとか、そういうのじゃないと思うんだけど……でも……」
言葉の途中で、カナデは少しだけ唇を噛んだ。その仕草が、子どもみたいに不器用で――かわいそうなくらいに真っ直ぐで。気持ちが言葉の形にならなくて、噛み砕けなくて、喉のあたりでつっかえているようだった。
「なんか、モヤモヤするというか……変な気分になったというか……」
カナデは目を伏せたまま、指先で自分の膝をぎゅっと掴む。整理しきれない感情が、身体のほうに先に溜まっているのがわかった。
こんな姿、初めてだった。どんな相手にも冷静で、淡々として、必要な距離を保てるはずのカナデが。こんなふうに感情の波に呑まれて、座り込んで、言葉を探している。
その姿を見た瞬間、わたしの身体が熱を持った。怖い、じゃない。逃げたい、でもない。ただ――胸の中が、じわっとほどけていく。
こんなふうに、カナデがわたしの前でだけ崩れているみたいで。見せないはずの弱さを零してしまうくらい――わたしを気にしているようで。そんな都合のいい考えを、止められなかった。
視線を逸らさなきゃいけない。なのに、逸らせなかった。跳ね続ける鼓動が、耳の奥をうるさく叩いて――まるで、期待してしまった自分を叱っているみたいだった。
「……ミナ」
小さく名前を呼ばれて、息が止まる。
「私に内緒で、ほのかと練習してたわけ? ……私より、ほのかの方が、いいとか?」
ぽつりと落ちたその問いかけに、胸の内側がひゅっと縮む。顔を上げると、カナデはそっぽを向いたまま、唇を少し尖らせていた。怒っているわけじゃない。責めたいわけでもない。ただ、拗ねている。拗ねるしか、できないみたいに。その横顔が、いつになく子どもっぽくて――わたしは、そこでやっと気づいた。
間違いなく、カナデは今、わたしに……ヤキモチを妬いている。信じられない。嬉しい、なんて思っていいはずがないのに――胸がひどく締め付けられて、息がうまく吸えなくなる。だけど同時に、どこかがふわっとあたたかくなる。
わたしは膝を折って、カナデと同じ高さまでしゃがみ込んだ。目線が揃うだけで、距離がぐっと近くなる。カナデは一瞬驚いたみたいに目を瞬いて、すぐにまた視線を落とす。
「カナデったら……そんなわけ、ないでしょ……?」
声が、自分でも驚くほど柔らかかった。宥めるつもりなんてなかったのに、自然とそういう音になる。わたしの中で何かが、静かに切り替わっていくのがわかった。
「わたしね……夏休みの最初、全然楽器が吹けなくて……」
言葉を選ぶほど、喉元が苦しくなる。だけど、逃げたくなかった。全部をちゃんと、伝えたかった。
「……カナデに嫌われちゃうんじゃないかって、本気で思ってたの。だから、泣いちゃって……そのときにたまたま、ほのかちゃんが話を聞いてくれて。特訓に、付き合ってくれてたの」
できるだけ真っ直ぐに。できるだけゆっくりと。ひとつひとつ、祈るみたいに言葉を置いていく。カナデは、すぐには返事をしなかった。けれど、ちらりとこちらを見た瞳には――思っていたよりずっと、脆い寂しさが滲んでいた。
「そんなので……私がミナを嫌いになるとか、あり得ないし……。っていうか……私に言ってくれたらよかったのに……」
その声は、痛々しいくらいに素直だった。軽口で誤魔化すでもなく、強がって笑うでもなく。剥き出しの「寂しい」が、そこに落ちている。わたしの胸が、ぎゅっと軋む。同時に守りたいという気持ちが、熱みたいに湧いてくる。
「カナデ……ごめんね」
わたしの指先が、勝手に動いた。触れていいのかなんて考えるより前に、カナデの手の近くへ伸びていた。
「カナデはそんなことしないって、わかってたよ。でも、怖くて……不安で……」
言いながら、そっと指先で触れる。ほんの一瞬だけ触れて、引っ込めるつもりだったのに――カナデの手は、ひんやりしていた。思ったより冷たくて、思ったより力がなくて。その冷たさに、切なくなる。だからわたしは、もう少しだけ近づいて、指を重ねた。手の甲に触れる。指の付け根に触れる。怖がらせないように、音を立てないように、どこまでも優しく。
「……わたしの先生は、カナデだけだよ」
小さく呟いて、今度は掌ごと包んだ。細い指を、ほどけないように支えるみたいに。逃げないように押さえつけるんじゃなくて――温めるみたいに。
触れた瞬間、カナデの肩がぴくりと震えた。それから張り詰めていた力が、ふっと抜けていくのが掌越しに伝わってくる。
「……そっか」
カナデの息が、ひとつ落ちる。力のない指先が、探るみたいに動いて――わたしの指に、そっと絡んだ。どちらからともなく静かに、でも確かに、手が繋がれた。その瞬間、わたしの中にあった不安まで、一緒に握られた気がした。冷たいはずの掌が、少しずつあたたかさを思い出していく。
わたしは立ち上がって、繋いだままの手を離さずに、控えめに引いた。それは引っぱるというより――おいでと、静かに合図するみたいだった。カナデは一瞬だけ迷うように目を伏せて、それから、ゆっくりと立ち上がった。絡んだ指がほどけないまま、身体が起きる。その動きに合わせて、さっきまで床に落ちていた空気も、少しずつ持ち上がっていく気がした。
視線が、ぴたりと合う。たったそれだけで、心がふわっと緩んで――わたしたちの間に、ほんの小さな笑みが落ちた。堪えきれずに零れたみたいな、弱い笑い。
「ふふっ……」
自分の声の震えが、少し恥ずかしい。だけど、もう引っ込めることはできなかった。
「カナデ、わたしね……。カナデが……わたしの前で、格好悪いところを見せてくれて……ちょっと嬉しいかも」
言った瞬間、しまったと思う。でも、違う――わたしが言いたいのはきっと、そうじゃない。
嬉しいのは、見せてくれたこと。隠さなかったこと。わたしの前でだけ、ほどけてくれたこと。それに、カナデはぽかんとした顔で固まった。眉間に寄った小さな皺が、いつもよりずっと幼く見えて――わたしの心臓の根元が、きゅっと甘く痛む。
「だって、カナデったら……。いつもすごく余裕があって、わたしをからかってばかりなのに……」
言葉を選びながら、わたしは目を逸らしかけて――でも、逃げずに続けてしまった。
「……ヤキモチ、なんて」
「……えっ」
カナデの声が、ぴくりと跳ねる。その一音だけで、「言っちゃった」が全身に広がった。鼓動が、いきなり速くなる。熱が頬まで駆け上がって、わたしは反射で口元を押さえる。
カナデは黙って、黙って――一拍置いてから、まるで照れ隠しみたいに、ばたりとソファーに身を投げた。それは乱暴な動きなのに、どこか逃げ腰で。天井を見上げたまま、カナデは視線を合わせない。
「……ヤキモチ」
自分の口で言い直して、カナデは少しだけ顔をしかめた。その表情はまるで、初めて触る単語の意味を確かめているみたいだった。
「これが……なるほどね。たぶん……そうなのかも。ミナが、ほのかに取られてると思ったら……なんかちょっと、ムカついた」
言いながら、カナデは片腕で目元を隠す。その声はどこか自嘲気味で、悔しそうで――でも、確かに素直だった。言葉にした瞬間、カナデ自身も驚いたみたいに少し固まって、それから「……かっこわる」と、小さく吐き捨てるように呟いた。その不器用さが、どうしようもなく愛しくて。わたしは堪えきれずに、くすりと笑ってしまう。
「やだ、カナデ……かわいい」
「ミナ」
わたしの呟きに、即座に低い声が返ってくる。怒っているのに、怒り切れていない。拗ねているのに、拗ね切れていない。その曖昧さが、また可愛い。
「まったく……後で覚えといてよ」
顔を背けたカナデの耳は、ほんのり赤く染まっていた。




