第十四話 掌の冷たさ(1)
長いと思っていた夏休みは、終わりが近づくほど、やけに早く過ぎ去った。カレンダーの空白が埋まっていくたびに、胸が少しだけ落ち着かなくなる。わたしは小さく伸びをして、楽器ケースの持ち手を握り直した。今日は、ほのかとの練習の最終日だった。
「美奈ちゃんとの練習、今日で最後なんて……ちょっと寂しいな」
いつものカラオケ屋で、ほのかは受付にいたカナデのお兄さんに伝票を渡し、わたしに向き直った。柔らかい笑顔。いつもと同じ顔――なのに、ほんのわずかに名残惜しさが滲んでいる。
「仲良くなれて、嬉しかったよ。学校が始まっても……また一緒に、練習できたらいいな」
その言葉が落ちた瞬間、心の中にふっと風が通った。まさか――夏休みの間にほのかとこんなふうに話せるようになるなんて、想像もしていなかった。わたしは小さく頷いて、視線を落とす。
「……わたしも、そう思ってる。ありがとうね、ほのかちゃん。ほのかちゃんのおかげで……高音も、ちょっとずつ出るようになってきたし……」
そう言いながら、自分でも少し驚く。カナデに見捨てられないようにと、必死にしがみつくみたいに始めた練習だったはずなのに――いつの間にか、楽しいと思う瞬間が増えていて。音が出せたときの喜びを、ちゃんと分け合えるようになっていた。
「いやいや、それは美奈ちゃんの努力の成果だよ。だって美奈ちゃん……すっごく頑張ってたもんね」
ほのかはくすりと笑って、首を振る。さらりとしたロングヘアが揺れて、照明の光を滑っていた。その瞳が――ふっと、わたしの肩越しを見た気がした。わたしじゃない。わたしの向こう側。たぶん、わたしの背後にいる、誰か。その気配に気づいた瞬間、思わず息が浅くなる。
「でも、本当に最近の美奈ちゃん……音の出し方だけじゃなくて、雰囲気も変わった気がするな。余裕が出てきたっていうか……。なにか、心境の変化でもあったのかな? ふふっ」
どこまでも優しい声。冗談めいた軽さ。なのに、言葉の端だけがやけに鋭くて、頬がかっと熱くなる。見透かされている――というより、「気づいているよ」と、そっと示されているみたいだった。
わたしは答えられなくて、曖昧に笑って誤魔化す。その代わり、楽器ケースを両手で握りしめた。革の冷たさが指先からじわりと染みて、現実に引き戻してくれる。
「じゃあ、お昼でも食べに行こっか!」
ほのかがお揃いのケースを軽く自分の身体に当てて、一歩を踏み出す。その瞬間――からんと控えめな音がして、自動ドアが開いた。むわりと夏の熱気が流れ込む。外の光が白く差し込んで、店内の空気が一瞬だけ薄くなる。そして、その光の中に、見慣れた影が立っていた。
「あっ、あれ? 奏?」
ほのかがその名前を呼んだ瞬間、わたしの肩が小さく跳ねた。視線の先――楽器ケースを背負い、無表情のままこちらを見ているカナデがいた。いつも通りの顔。いつも通りの立ち方。なのに、その視線がわたしとほのかを行き来したとき、ほんのわずかに――曇った。
「ミナ……と、ほのか? ……なんで一緒にいんの?」
たったそれだけの問いかけなのに、空気がぴんと張った。カナデの声は、淡々としている。責めるような棘も、怒る色もない。ただ、温度が一段落ちたみたいに低いだけ。
胸の内側がざわついて、声が喉に引っかかる。
――ばれた。カナデに内緒でしていた練習。ほのかとふたりで積み上げた時間。秘密の特訓でうまくなって、カナデをびっくりさせちゃおう――その約束が、いま目の前に引きずり出された。わたしが言い訳を探すより先に、背中からふいに腕が回った。それは抱きとめるみたいに優しくて、だけどどこか、カナデに見せるための動きだった。
驚いて振り返ると、ほのかはいつも通り、穏やかな笑顔のままだった。その顔が優しすぎるぶん、余計に怖い。
「ふふっ……。実はね、奏の知らない間に……美奈ちゃんと、ちょっと仲良くなってたの」
その声色はあくまで優しくて、あくまで無害そうで――でも視線だけは、まっすぐにカナデを見据えていた。いつもの笑顔とは少し違う、意図的な強さ。その気配に、わたしは何も言えなくなった。ほのかが今、わたしを守ってくれているのか、カナデを試しているのか。その境界が薄くて、わからない。
「……ほのか」
カナデが短く名前を呼ぶ。いつもよりほんの少し、低い声。怒っているわけじゃない。だけど、胸のどこかがきゅっと硬くなるような、張り詰めた音がした。表情は相変わらず無表情に近いのに、目だけが違った。真っ直ぐで、逸らさなくて、静かに圧がある。目線だけで、距離を詰めてくるような感じだった。
その張りつめた空気に、ほのかが困ったように笑う。その瞬間だった。カナデがこちらへ一歩で距離を詰め、わたしの腕を取った。指先が触れた瞬間、ほのかの腕がほどける。抱えていた温もりがふっと消えて、肩が急に軽くなる。代わりに、カナデの手だけが――やけに、確かな重さで残った。
「……ミナは、私のでしょ」
それは、声というよりも――零れ落ちた感情そのものだった。言い切ったあと、カナデはわたしを見ないまま、ほのかの方に視線を投げた。口元は無意識に結ばれていて、その目だけが少しだけ鋭い。唐突で、真っ直ぐで、あまりにも子どもじみたその言葉に――わたしの中で何かが、ぴしりと弾けた。
「私の」なんて、まさか。そんなふうに言うほどの気持ちが、カナデにあるはずがない。わたしのことなんて、ただの友達で、ただの……。それなのに。
その言葉が、皮膚の内側を震わせた。耳じゃなくて、身体に先に届いたみたいに――気づきたくない何かに触れられた感覚だけが残る。
もしかして、ヤキモチ? カナデが? それとも、もっと幼くて原始的な――奪われそうになることへの怖さとか、自分の場所が揺らぐ不安とか。名前のつかない感情が――たった一言の中に混ざっていた。
しかもたぶん、本人は言った自覚がない。カナデの顔に、「言ってしまった」という影は一切ない。ただ、唇だけが――言葉のあとを追うように、わずかに揺れていた。
心臓が跳ね上がる。背中にぞくりと熱が走って、頬が一瞬で火照る。
いけない。期待しちゃいけない。カナデには、きっとそんなつもりはない。ないはずなのに、わたしは視線を逸らせなかった。だって、カナデの手はまだ、わたしの腕を掴んだままだったから。
「奏ったら……ほんと、変わったね」
ほのかはすっと息を吐いて、ほんの少しだけ表情を緩めた。静かに笑っているのに、その目はわたしではなく――カナデだけを見ていた。探るみたいに。確かめるみたいに。そして、何かに静かに頷くみたいに。
「……そうかな」
カナデの返事は短い。いつも通りの平熱のはずなのに、どこか落ち着かない揺れが混ざっていた。強がるようで、照れを隠すようでもあって――自分でも、うまく言語化できていない声だった。
「まあ、昔よりは……楽しいよ」
その言葉の最後だけが、少しだけ柔らかい。ほのかはその柔らかさを、見逃さない顔をしていた。笑みの奥の目が、ほんの一瞬だけ細くなる。それから、ほのかはわたしにちらりと視線を寄越した。それはきっと、「大丈夫?」でも「ごめんね」でもない――もっと短い、もっと確かな、合図のような目だった。そのままふわりと微笑み、ほのかは自動ドアの方へと歩き出す。
「やっぱり……美奈ちゃんとなら、大丈夫かな……」
小さく零れた独り言は、誰に向けたのかわからない。わたしに言ったのか。カナデに投げたのか。それとも――自分自身に、決意を言い聞かせたのか。
「……ふたりとも、また連絡するねー! またねー!」
最後にくるりと振り返って、ほのかは笑う。いつも通りの、優しい笑顔だった。だけど、その瞳は最後まで――カナデから離れなかった。
その視線に、わたしの背筋がひやりとした。きっと――ほのかは、ただ優しいだけじゃない。あの笑顔の奥には、確かに何かを動かそうとする意志があった。さっきの抱き寄せ方も、目の据え方も、全部――優しい挑発だった。
……でも、どうして? 答えを探す前に、空気がもう一段、冷たくなる。
「奏。お前……あんまり友達に迷惑かけるなよ……」
重い声が、後ろから落ちてきた。驚いて振り向くと、カウンターの奥にいたカナデのお兄さんが、じっとりとした目でこちらを見ていた。その目は冷たくて、乾いていて、妹の一挙手一投足を逃さない。それに、カナデの肩がわずかに跳ねた。
「うっさい。……ていうか、なんでいんの? もう上がったと思ってたのに」
カナデの声が、刺のあるトーンで返る。いつもの、あの飄々とした感じじゃない。さっきまでの張り詰めた感情が、そのまま苛立ちへと転がり落ちたようだった。怒っている、というより――素が剥き出しになっている。その苛立ちには、子どもみたいな悔しさが混ざっていて、わたしは息を呑んだ。
「お兄ちゃんは急遽残業中なんですー、残念でしたー」
お兄さんが軽く皮肉を返すと、それが火種に油を注いだように、カナデの目がきゅっと細くなる。カナデがした小さな舌打ちが、やけに大きく聞こえた。見えない火花がぱちんと弾けた気がして、わたしの背中が粟立つ。
――カナデが、こんなふうに怒るなんて。いま目の前にいるのは、わたしが知っているカナデじゃない。拗ねたみたいに不機嫌で、刺々しくて、でも視線だけは真っ直ぐで。感情の扱い方がわからないまま、苛立ちを抱えて立っているような顔だった。
そのまま、カナデの目がわたしに向いた。黒い瞳には、鋭い棘のようなものがあった。責めるつもりじゃないのに、感情だけが剥き出しになっているみたいで――びくりと息が止まる。心臓が小さく強く、きゅっと縮こまる。カナデは一度だけ深く息を吸って、吐き捨てるように言った。
「……伝票、三時間で付けといて。ミナ、行くよ」
それだけで、説明も謝罪も、余裕もない。次の瞬間、カナデがわたしの腕を再び取る。その引きは、いつもよりずっと強かった。痛いほどじゃない。でも、断れない強さだった。何も言えないまま、わたしはその手に引かれて、奥の部屋へ連れていかれる。
背後で、お兄さんのため息が聞こえた気がした。けれど、振り返る余裕はない。
カナデの掌は、冷たい。冷たいのに、わたしの腕を離さない。その矛盾が、いまのカナデそのものみたいで――わたしの中に、じわじわと戸惑いと不安が広がっていく。
部屋に入り、扉が閉まった瞬間――空気が変わった。カラオケボックス特有の、甘い消毒の匂い。壁に吸われた音。冷房の乾いた風。外の湿気と陽射しが嘘のように、ここだけが冷えている。
カナデは、わたしに背を向けたまま立ち尽くしていた。肩がわずかに上下して、それから――静かに、でも深く息を吐く。ふっと落ちたその呼吸が妙に重たく響いて、部屋の空気まで沈んだ気がした。
その背中が、いつもより小さく見えた。背筋は真っ直ぐなのに、どこか頼りなくて。わたしの知っている、前だけを見ているカナデじゃない。ただ、行き場を失ったみたいに固まっている背中だった。
わたしを引っ張ってくれて、いつだって迷いなくて、冗談みたいに綺麗な音を鳴らして。たまに意地悪で、でもすごくあたたかくて――誰よりも優しい、あのカナデ。
だけど今、そこにあるのは違う。悔しさ。苛立ち。嫉妬。今まで見たことのない感情が、背中越しに滲んでいた。
――カナデにも、こんな顔があるんだ。当たり前のことなのに、胸がきゅっと痛む。
わたしの腕にはまだ、さっき掴まれた手の感触が残っている。体温が抜けたみたいなのに、どこか熱を抱えていた掌。それが、わたしを今も現実に繋ぎ止めている。




