第十三話 涙の理由(6)
階段を上りきると、乗り場の前に小さな写真ブースが設けられていた。先頭の家族連れが、フレンドリーなスタッフに促されて写真を撮られている。
「おふたりもどうですかー? 写真は別に、買わなくても大丈夫なんでー!」
スタッフの陽気な笑顔に押されて、わたしたちは写真ブースの前に立たされた。足元のマットがやけにふかふかしていて、それだけで現実感が薄くなる。カナデがちらりとわたしを見て、肩をすくめるみたいに笑った。
「せっかくだし、撮っとこうか」
その一言だけで、身体の芯がふっと熱くなる。何気ない顔で隣に並んだだけなのに――隣にいるという事実が、もう特別みたいに感じてしまう。観覧車のゆるキャラを真ん中にして、わたしは戸惑いながらもぎこちなくピースを作った。
「はい、笑ってくださーい! ……ワンピースのお姉さーん! もうちょっとだけ、仲良さそうに近づいてくださーい!」
わたしだ。その指摘に、胸がひゅっと縮む。言われた通り、ほんの少しだけカナデの方へ身体を寄せる。けれど、それだけで限界みたいに心がざわついた。近い。近いのに、まだ足りない。近づきたいのに、近づくのが怖い。
「いいですねー! もっともっと! もう半歩だけ!」
半歩。たった半歩。なのに、その距離がやけに遠い。踏み込んだら戻れなくなるみたいで、足が動かない。指先が冷えていくのに、頬だけが熱い。カナデの香りが、すぐ隣にある。息を吸うのが下手になって、呼吸が浅くなる。
「もうちょい! 肩、くっつけちゃいましょー! はい、もっと!」
カメラマンの声が、明るいのに容赦なく背中を押した。仲良さそうにって、どこまで? これ以上って、どうやって? 頭の中の理性が「だめだ」と言うのに、別の声が「今しかない」と囁いてくる。
――だったら、もう。
考えるより先に、身体が動いた。わたしは一気に、カナデの腕に飛びついた。自分でも信じられないくらい、強く。細いはずの腕は思ったよりしっかりしていて、触れた瞬間、体温がじわっと伝わってくる。香りが近い。心臓が跳ねる。
「……わっ! ミナ?」
カナデの驚いた声と同時に、シャッターが切られた。やってしまった。その瞬間に我に返って、わたしは反射で手を離し、一歩だけ距離を取る。急いで笑顔を作ったつもりなのに、頬が引きつっている気がした。鼓動が暴れているのが、自分でもわかる。だけど、もう止まれなかった。
「カナデ、びっくりした? ふふっ……いつものお返しだから!」
言いながら、自分の声が妙に明るい。誤魔化しているのが丸わかりだった。でもカナデは目を丸くしたまま、少ししてから「あははっ」と照れたように笑った。目を伏せて、頭を掻く仕草。あの完璧みたいなカナデが、ほんの一瞬だけ乱れている。その揺れが、思った以上にくすぐったい。
――ほんの少しだけど。こんなわたしでも、カナデの空気を揺らすことができた。もちろん、これで何かが変わるなんて思ってない。意識されるなんて、期待しちゃいけない。だけど、たった今この瞬間の――わたしの勇気が残した小さな痕が、カナデの中に少しでも残ってくれたなら。
「ナイスショットでしたー!」というカメラマンの明るい声に背を押されて、回ってきたピンク色のゴンドラに乗り込んだ。扉が閉じて、わたしたちはゆっくりと空に引き上げられていく。
カナデと向かい合って座る密室の中は、夏の空気がまるごと閉じ込められていた。小さな扇風機がぶうんと唸っているのに、背中を伝う汗は止まらない。さっきからずっと鳴りやまない鼓動だけが、耳の奥で主張していた。
ゴンドラが、軋みながら動き出す。カナデとの距離が、いつもより近く感じる。膝と膝が、触れそうで触れない。言葉が見つからずに喉の奥で飲み込んだまま、沈黙だけがふたりの間を埋めていた。
「あっ……あれ、汐見さんと轟さんじゃない」
窓の外を眺めていたカナデが、小さく指をさした。目線の先、ベンチに腰掛けてソフトクリームを食べているふたりがいた。こちらを見上げているような気がして、わたしは思わず手を振る。だけど高度が上がっていくゴンドラからじゃ、きっと気づいてもらえない。
その姿が、どんどん小さくなっていく。ベンチも、道も、人も、音のないジオラマみたいに遠ざかっていった。ゴンドラは緩やかに、だけど確実に、空へと昇っていく。
世界が、静かになっていく。
窓の外は夕陽に染まり始めていて、斜めから差し込む光が、カナデの輪郭を柔らかくなぞっていた。金色の縁取りに浮かび上がるその横顔は、まるでこの空間の中でだけ生きているみたいだった。
「ねえ……。カナデは、今日……楽しかった?」
ぽつりと尋ねると、カナデは一瞬だけ視線を落とし、それから小さく笑った。けれどその笑顔には、ほんのわずかに影が差していた。
「そうだね。うん……楽しかったよ」
息を吐くようにそう言って、視線をまた窓の外へ戻す。沈みかけた太陽が、広がる海を染めていた。
「前にも言ったかもしれないけど……人とこうして遊ぶことって、今まで本当に、なかったからさ」
カナデのその声は、どこか遠くを見ているようだった。感情を押し殺すわけでもなく、でもどこか淡々としていて――まるで、それが当たり前だったかのように。
「……ずっと、トランペットばかりだったから。私には、トランペットしかなくて……むしろ、それさえあればいいと思ってた」
そこで、少しだけ言葉が途切れた。わたしは何も言えなくて、ただカナデの横顔を見つめる。その顔には笑みがあったけれど、目の奥には、誰も触れたことのない深い静けさがあった。
「だから……ミナと仲良くなってから、楽器を置いてこうやって、普通に遊ぶのは……すごく新鮮だし、なんか不思議な感じだったけど」
カナデが頬を掻いて、わたしの方をちらりと見る。その目が、ほんの少しだけ揺れていた。
「今は……嬉しいって思うよ。楽器を持ってない時間も、ちゃんと自分でいられるんだって……初めて知ったから」
その言葉が、わたしの中に染み込んでいく。静かに、でも確かに。カナデにとって、これは特別な日常だったんだ――。
音楽以外を知らなかった女の子が、わたしと出会って、初めて「音のない時間」に意味を感じた。もしもわたしの存在が、カナデの世界の中に、小さな窓を開けたのだとしたら――。
「……次は、ミナとふたりで。また、どこか行こうね」
視線を上げると、海のきらめきを背に、カナデが笑っていた。スパンコールみたいに揺れる水面が、きらきらとその顔を照らしている。綺麗だった。あまりにも、眩しかった。わたしはその眩しさに目を細め、ゆっくりと頷いた。
「そうだ、これ。ミナにあげる」
「……えっ?」
カナデが鞄の中を探って、「はい」と袋を差し出してきた。受け取る手が、少し震える。中を覗くと――そこにいたのは、まん丸な目をした、白いアザラシのぬいぐるみだった。
「カナデ……これって……」
「ミナ、アザラシの水槽からなかなか離れなかったでしょ? 好きなのかなーと思って。記念に持って帰ってよ」
カナデは少しだけ照れくさそうに、さらりと微笑む。ああ、だめだ。そんなふうに優しくされたら、もう。
ふわふわで、ぬくもりのあるアザラシを抱きしめた瞬間、張り詰めていた心の奥にひびが入った。柔らかい手触りが、まるでカナデの手みたいで。なんでこんなに、優しいの。なんで、わたしばっかり、こんなふうに――。
期待なんて、しないって決めたのに。期待してしまう優しさを、今、一番怖い形で渡されている。夢なんて、見ないようにしてたのに。それでも、カナデは――簡単に、わたしの限界を超えてくる。優しさの顔をして、平然と、わたしを壊してくる。
こんなの、ずるいよ。
「……ありがとう……。大切に、する……」
なんとか絞り出した言葉と一緒に、何かが溢れた。ぬいぐるみに顔を押し当てたまま、止められなかった。ぽたぽたと、涙が落ちる。
「えっ……ミナ? どうしたの……?」
カナデの動揺したような声が聞こえた。当然だ。理由も言わずに突然泣き出して、驚かないわけがない。
だけど、もう自分でもわからなかった。ただ胸があったかくて、痛くて、苦しくて――でも、どうしようもなく嬉しくて。
「ごめん……違うの……。カナデが優しすぎて……それが、嬉しくて……」
言いながら、自分でも何を言っているのかわからなかった。涙が止まらない。両手で顔を覆ったまま震えていると、そっと横に気配を感じた。
気づけばカナデが隣に座っていて、抱き寄せるように、わたしの背中に手を添えた。いつもの匂いがして、鼓動の音が聞こえて――世界が、少しだけ静かになった。
「ミナったら……嬉し泣き? ほんと、大げさだなあ……」
困ったように笑いながら、カナデの手がわたしを撫でてくれる。その掌が優しすぎて、温かすぎて――それがもう、たまらなかった。
カナデの服が、わたしの涙でじんわりと濡れていく。離れたくなかった。ずっとこのまま、ぬくもりに包まれていたかった。
――好きだ。この人のことが、好き。
もう、誰にも否定できないくらい。自分の中で隠しきれないくらい。言葉にできないほどの想いが、今、溢れている。
観覧車のゴンドラは、ゆっくりと下降を始めていた。見下ろしていた景色が、徐々に元の高さへ戻ってくる。
時間が終わってしまう。現実が、追いついてくる。だけどせめて、あと、もう少しだけ。この時間が終わらなければいいと、そう願わずにはいられなかった。わたしの涙の理由は、たぶん――嬉しさと怖さが、同じ形をしているからだった。




