第十三話 涙の理由(6)
階段を上り切ると、乗り場の前に小さな写真ブースが設置されていた。フレンドリーなスタッフが、先頭の家族連れにカメラを持って「一枚撮りまーす」と声をかけている。
「お二人もどうですか? 写真は別に買わなくて大丈夫なんで!」
スタッフの陽気な声にほらほらと背中を押され、空いていたブースに突っ込まれる。カナデを見ると、せっかくだし撮ろうかと笑っていた。
観覧車の謎のゆるキャラを挟む形で、カナデと二人並んで立つ。動揺しながらも適当にピースを作ってカメラに目線を向けると、「お姉さん! もうちょっと仲良さげに近づいて!」と声がかけられた。いやいや。愛想笑いをしながら少しずつカナデに寄っていくけれど、まだダメなの? 目線をカメラマンに送ると、「もっと!」とにこやかに煽られる。また半歩カナデに近付くけれど、かけられた言葉は「もう少し!」。……これ以上、どうしろって言うんだろう。平然としているカナデの横で、心臓が痛いほど鳴っていた。震える手をぐっと握りしめて、息を止める。こうなったら、もう、なるようになれ。
わたしは意を決して、カナデの腕に、思いっきり抱きついた。「うわっ」と驚いたカナデの声が響いた瞬間、シャッターが切られる。
「カナデ、びっくりした? ……いつものお返しだから!」
手をぱっと放し、出来る限りの自然な笑顔で笑いかける。カナデは目を瞬かせて、びっくりしたよと頭を掻いて笑っていた。その反応が、なんだか新鮮で――ほんの少し、くすぐったい。こんなわたしでも……一応、カナデの表情を揺らすことが、できるんだ。もちろん、これで何かが変わるなんて思っていない。意識してくれるだなんて、きっと期待しちゃいけない。だけど、ただの自己満足でも――今はそれだけで、十分だった。
カメラマンから良かったよーと声を貰いつつ、丁度回ってきたピンク色のゴンドラに乗り込む。カナデと並んで乗り込んだ空間は、夏の空気をまるごと閉じ込めていた。小さな扇風機がぶうんと唸っているけれど、背中を伝う汗は止まらない。心臓の高鳴りも、まだ静まってくれそうになかった。
「あっ……あれ、汐見さんと轟さんじゃない」
窓の外を眺めていたカナデが、指をさす。ベンチに腰掛けてソフトクリームを持った二人が、こちらを見上げていた。手を振ってみるけれど、二人はこちらに気付かない。そのベンチが、どんどん小さくなっていく。わたしたちのゴンドラはゆっくりと空へと昇っていき、街と人が、音もなく遠ざかっていった。
「ねえ。……カナデは今日、楽しかった?」
夕陽が斜めから差し込み、カナデの輪郭が少しだけ金色に縁取られていた。この空間に、わたしとカナデしかいない。観覧車の窓越しに見下ろす景色が、まるで世界から切り離されたみたいに感じられた。
「えっ? ……うん、楽しかったよ」
カナデは、少しだけ目を伏せてから、息を吐くように笑った。
「前にも言ったかもしれないけど……人とこうして遊ぶことって、本当に滅多になかったからさ」
一瞬、笑顔の影に何かが差したように見えた。その瞬間、わたしの背中がすっと冷たくなる。カナデは窓の外に目線を向けて、何かを噛みしめるように小さく笑った。
「……ずっと、トランペットばかりだったから。私にはトランペットしかないって思ってたし、それでいいとも思ってた。だから……ミナと仲良くなってから、こうやって普通に遊べるのは……すごく新鮮」
カナデは照れくさそうに頬を掻いて、わたしに向き直る。真っ黒な瞳が夕陽の色を受けて、燃えるように揺れていた。
「本当に、楽しかった。たまには、楽器を置いて……こうやって過ごすのも、悪くないね」
その言葉が、胸に静かに染み込んでくる。カナデにとってはただの、思い出話のつもりかもしれないけれど――わたしには、カナデの孤独が透けて見えて。膝の上に置いた掌を、堪えるようにぎゅっと握りしめた。
「……次は、ミナと二人で遊びに行こうね」
視線を上げると、海のきらめきを背に、カナデが笑っていた。スパンコールみたいに揺れる水面が、きらきらとその顔を照らしている。綺麗だった。あまりにも、眩しかった。わたしはその眩しさに目を細め、ゆっくりと頷いた。
「そうだ、これ。ミナにあげる」
「えっ?」
カナデが鞄から袋を取り出して、「はい」とわたしに軽く手渡す。困惑しながら受け取って中身を見ると、白いアザラシのぬいぐるみと目が合った。
「カナデ……これって……」
「ミナ、アザラシの水槽からなかなか離れなかったでしょ? 好きなのかなーと思って。記念に持って帰ってよ」
震える両手でぬいぐるみを掲げて、思わず抱きしめる。ふわふわしていて、柔らかくて、あったかい。……カナデはいつだって、わたしを惑わせてばっかりだ。期待しないようにしても、希望を見せてくる。ずるい。本当に、ずるいなあ。こんなことをされたら――
「……ありがとう。……大切に、する……」
口にした途端、張り詰めていた気持ちが一気にほどけて、涙が止まらなくなった。自分でも、どうして泣いているのか――分からない。でも確かに、胸の奥から何かが溢れていた。
「えっ、ミナ? どうしたの……?」
そう言ったカナデの声には、動揺がにじんでいた。ごめんね。理由も言えずに突然泣き出すなんて……びっくりするに決まっている。だけど、どうすることもできなかった。
「ごめん……違うの……カナデが優しくて、それが、嬉しくて……」
両手で顔を隠しながら声を絞り出すと、カナデは少し困ったような顔をしながらわたしの横にやって来る。そして、わたしをそっと、抱き寄せてくれた。
「ミナったら……嬉し泣き? ほんと、大げさだなあ……」
呆れたように笑いながらも頭を撫でてくれる手が、どこまでも優しかった。カナデの服を、わたしの涙が濡らしていく。鼓動が服越しに伝わってきて、なんだか安心してしまう。
この人のことが、好き。これはただの「好き」じゃない。言葉にできないほどの想いが溢れてきて、止まらない。わたしは、カナデのことを――どうしようもなく、好きになってしまっていた。
気が付けばゴンドラは、少しずつ降下していた。現実が、近づいてくる。分かっている。永遠に、このままではいられない。だけどせめて――あともう少しだけ。この時間が終わらなければいいと、そう願わずにはいられなかった。