第十三話 涙の理由(4)
館内を一周し、出口の隣にある休憩スペースに立ち寄ると、日菜子が座ってわたしたちを待っていた。
「美奈ちゃん、松波さん。どうだった? 楽しめた?」
日菜子の視線が、カナデと繋いだままだった手に向かう。慌てて手を離すと、カナデはあっけらかんとした笑顔で「ミナもはぐれそうだったからね」と言い、すっと椅子に腰を下ろした。――やっぱりわたし、カナデに妹扱いされてない? 軽くむくれた気持ちを隠しながら、わたしはその隣に腰掛ける。
「おー、松波奏と美奈氏! ナイスタイミング〜」
軽い声に振り向くと、両手にソフトクリームを持った若葉がいた。片方はチョコレートで、もう片方は……何味か分からないオレンジ色のクリームが渦巻いている。
「これ、松波奏と美奈氏のぶん。今日付き合ってくれたお礼にね! どっちがいい?」
えっと声を上げて、カナデと顔を見合わせる。何味か分からない不安感にどうしようかと迷っていると、カナデがオレンジの方を選択した。
「汐見さん、ありがとう。コレ、何味なの……」
「食べてからのお楽しみ!」
眉をひそめたカナデが、ソフトクリームの先端に口を付けた。訝しげな表情が途端に変わって、なるほどと頷く。
「えっ、カナデ……それ、何味だったの?」
「ミナも食べてみる?」
一口欠けたソフトクリームが、すっと眼前に差し出された。凹んだ箇所に視線が吸い寄せられ、顔が一気に熱を持つ。カナデは友達なんだから、変に気にする方がおかしいし……突っぱねる理由もない。カナデは、わたしに――ただの友達として、こういうことをしてくる。わたしはおずおずと顔を近付けて、そっと一口だけ、凹んだ隣をかじる。ソフトクリームは冷たいはずなのに……体温が一気に上がったようだった。視界の端がにじむ。目を伏せて咀嚼をしていると、なるほど、これは……。
「……マンゴーだ」
「マンゴーなの? ひまわりソフトクリームって書いてあったから、ひまわり味かと思ったんだけど」
わたしたちの様子を見ていた若葉が、どこか残念そうに声を上げた。買って来た若葉も、味を知らなかったなんて……。つい呆れて若葉を見ると、目が合ってにんまりと微笑まれた。それにしても、カナデは怖いもの見たさでひまわりソフトを選んだのだろうか。それとも……。
そんなことを考えていると、自分が持っていたチョコレートのソフトクリームが傾いていたことに気が付いた。慌てると、クリームがどんどん倒れ掛かってくる。やばい、落ちる! そう思った瞬間、横からカナデの顔が割り込んできた。
「……一口いただき」
気付いたときにはわたしのソフトクリームが、一口分欠けていた。身体中の血が、沸騰する。あまりに自然すぎて、止めることも、何か言うこともできなかった。自分の手に持っているソフトクリームが軽くなったことよりも……目の前で何も気にせずそれを食べているカナデの方が、何倍も重たい。何それ。無意識なの? 本当に、気にしてないの? わたしは今……たった一口で、息が詰まりそうになってるのに。
「ふふ、こっちも美味しいね」
そう言って微笑んだ顔が、唇が、距離が――まだそこに残っている気がして、身体の奥からどくどくと音がする。わたしは言葉を失いながら、そこに残された跡をじっと見つめていた。
「……松波奏、破壊力やっべえな」
「それ、私も思ってた。美奈ちゃんじゃなくても、これはやばいよ」
目の前でこそこそと言い合っている若葉と日菜子の声が、どこか遠くに聞こえる。わたしの世界は今、隣でマンゴーソフトを頬張るカナデでいっぱいだった。ねえ、カナデ。こんなふうにされて――どうして好きにならずにいられるっていうんだろう。
「……それにしても、今日は小説のネタが沢山手に入って良かったわ。これは捗るぞー」
若葉が頬杖をつきながら、わたしとカナデの顔を交互に見た。そのにやにやとした視線に、背筋が一瞬ぞわりとする。ちょっと待って。もしかして、わたしのことも小説にするつもりなの? わたしのそんな緊張をよそに、カナデは飄々とソフトクリームのコーンをかじりながら、平然と訊ねた。
「そういえば、汐見さんは文芸部に入ってるってミナから聞いたけど。どういう小説書いてるの?」
「ん? そうだなあ。色々書くけど……近頃は恋愛物を書いてみたいと思ってんだよね」
へえ、と相槌を打つカナデの横で、わたしは「えっ」と息を呑む。そんなわたしに気付いた若葉が、目を細めて眺めてきた。
「おいおい美奈氏……。私が恋愛物書くのが、そんなに意外か?」
「え? いや、そういう訳じゃ……」
そう言いながら、目の前の若葉を眺めてみる。プリント柄のTシャツと、ショートパンツ。これで虫取り網なんか持っていたら、完全に夏休みの小学生だ。そんな若葉が、恋愛なんて……。全くイメージ出来ないけれど、実は好きな人とかいるのだろうか。
「……美奈氏、なんか変なこと考えてない? むしろ、私は恋愛が分からないから……せめて小説の中で、分かろうと努力しているのさ」
薄い胸を張って、若葉が堂々と答える。なるほどと頷きながら、若葉の向上心に感心する。恋愛をしているらしいわたしでも、小説なんて書ける気がしないのに。
「という訳で、恋愛に関するネタは常に募集中なの。日菜子氏の恋バナはいっつも聞いてるからねー、勉強になるよ。松波奏はー……そのあたりどうなん?」
丸い目を輝かせた若葉が、唐突に話題をカナデに振った。その質問に息が止まって、わたしは恐る恐る横を見る。すっかりソフトクリームを食べ終えたカナデが、顎に手を添えて考え込んでいた。その表情には一切のざわつきもなく、カナデは何でもないような顔で答えた。
「そうだなあ……恋愛……。私もよく分からないな」
その言葉を聞いた途端、心臓がきゅっと縮んだ。分かってた。そんなの、最初から分かってた。だけど――本人の口から出されたその言葉は、やっぱりどこか冷たかった。
「ふうん。松波奏は、過去に好きな人とかいたことなかったん?」
「ないね。ずっと音楽一本だったし……周りのことを気にする余裕も無かったから。最近はようやく周りも見えるようになってきたけど……恋愛なんて、考えたことないな」
どくんどくんと、耳の奥で自分の心臓の音が響く。血の気が引いていくはずなのに、体温だけはなぜか上がっていく。本当に、この恋は――わたしの片想いは、ただの幻想なんじゃないかって。もしかしたらいつか、わたしにも気づいてくれるんじゃないかって……そんな期待さえ、打ち砕かれそうで。そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと絞られた。
「……松波さん。今は分からなくても……もしかしたら、そのうち分かるようになるかもしれないよ。松波さんのことを大切に思ってる人が、きっといるはずだから」
そう言った日菜子の声は、いつも通り優しかった。でも、わたしにはそれが、あまりにも優しすぎて――まるで「まだ可能性はあるよ」と、遠回しに慰められているみたいだった。
顔を上げると、カナデはいつもの笑顔で「そうかな」と呟いた。その笑顔に、一筋の迷いもなくて。ああ、カナデはやっぱり――本当に、全部、無自覚なんだ。わたしの“好き”なんて、全然届いていないんだ。
「ひ、日菜子ちゃん……そ、それより、日菜子ちゃんは最近蒼さんと……どうなの?」
苦しくて、もうこれ以上は聞いていられなくて――どうにか笑顔を貼りつけて、強引に話題を変えた。その横で若葉が呆れたような顔をしているのが見えたけど、もうどうでもよかった。こんなカナデに、わたしのこと――好きになってもらえるわけ、ないんじゃないかな。テーブルの端に落とした視線の先、ゆらゆらと反射する光が滲んで見えた。館内の喧騒が心のざわめきを隠してくれるようで、少しだけありがたかった。そっと天井を仰いで、まばたきを一つだけ、ゆっくりとした。