第十三話 涙の理由(3)
ガラスのドームのエスカレーターを下ると、ひんやりとした空気と共に、大きな水槽が目の前に現れた。まるで森のような水の中を、魚が気持ちよさそうに泳いでいる。
「うお~! おいしそー!」
目を輝かせた若葉が、水槽の前で群れていた小学生の中に紛れていく。両手をガラスにぴったりと付け、魚に視線が吸い寄せられていた。
「へえ、すごいね。綺麗」
隣のカナデも感心したように、水槽をじっと見つめていた。水流に揺れる鮮やかな水草が、その瞳に反射している。薄暗い館内で、カナデの瞳が宝石みたいに輝いていた。
「……美奈ちゃん、魚より松波さんばっかり見てるね」
耳元で小さく囁かれ、振り向くと日菜子が楽しそうに笑っていた。その言葉に身体が跳ね、慌てて視線を水槽に向けたけれど――やっぱり視線は、カナデの持つ引力に引っ張られる。
校外学習の小学生に紛れながら、順に水槽を見て回る。大型水槽の前は小学生が溢れていて、我先に見ようとする子供たちでなんだかもみくちゃになっていた。
「ミナ、もう少し近くで見なくていいの?」
遠くから様子を眺めていたわたしを気にして、カナデが声をかけてきた。光を受けた水面が反射して、わたしたちの間をゆらゆらと揺れている。わたしは視線を落として、苦笑した。
「……わたしなんかより、若い子に楽しんでもらったほうが、いいと思うから」
口にしてから、自分でも少し引っかかった。こんな言い方じゃ、誰も得しない。これはただの卑屈。言い訳。本当は――あの人混みに入る、勇気が出なかっただけなのに。
「何それ。優しいんだね」
カナデはわたしの本音を暴かずに、ただ笑ってくれた。そんなの、優しいのは、カナデの方。いつもそうだ。わたしが自分で自分を下げていくたびに、カナデはそうやって、静かに救ってくれる。わたしのだめなところを、笑いながら隠して、受け入れてくれる。それが嬉しくて、少し悔しくて、ちょっと情けなくて。カナデの横に立って、水面の光を一緒に眺める――それだけのことが、どうしてこんなに苦しいんだろう。カナデはわたしが見ようとしない水槽の前で、ずっと隣にいてくれていた。
「……そういえば、汐見さんと轟さんは?」
思い出したように呟いたカナデの言葉で、慌てて辺りを見渡す。ぐるりと視線を彷徨わせても、見えるのは小学生の姿だけ。鞄の中からスマートフォンを取り出すと、日菜子からメッセージが届いていた。
『若葉ちゃんのことは私に任せて~! 美奈ちゃんと松波さんは、ゆっくり回って来てね!』
そう書かれた吹き出しの下に、ナマコを手に持った若葉の写真が添付されていた。白い歯を見せて、にっこりと笑っている。ナマコがちょっと気持ち悪くて、思わず顔を引きつらせた。
「うわあ……汐見さん、すごいね……。ミナ、どうしようか。お言葉に甘えて、二人で回る?」
画面を覗き込みながら、カナデがわたしを見た。薄暗い館内。魚影の光が揺れて、カナデの黒い瞳がきらきらと幻想的に光っていた。心臓が鳴る。返事をする前に、喉がぎゅっと詰まっていた。なんでこんなに、言葉が出てこないんだろう。ただの水族館なのに。ただ遊びに来ただけなのに。
「……うん」
小さく頷いたわたしに、カナデはふっと笑って、先に歩き出す。いくつもの水槽が、青と緑の幻想的な光を放っていた。わたしとカナデの影が、交互にきらきらと足元に映っては、揺れて消えていく。まるで、デートみたいだった。そんなことを思っちゃいけないのに、思ってしまう。だって――隣にいるのは、わたしの“友達”の、カナデなんだから。恥ずかしい。苦しい。でも……嬉しい。感情の全てが混ざり合って、胸の奥がずっと落ち着かない。
ふと、歩くときに手が当たった。指先が触れた一瞬だけで、体温が跳ねた。急いで手を引っ込めたのに――
「ミナったら、慌てすぎじゃない? ミナもはぐれたら困るし、繋ごうか」
そう言って、カナデがわたしの手を取った。うそでしょ? こんなに自然に。こんな、当たり前みたいに――。触れた瞬間、心臓が跳ねた。繋がれた掌が、ひどく熱い。冷房が効いた館内で汗ばむなんて、思ってなかったのに……じんわりと汗が滲んでいくのが分かる。
この掌から、わたしの全部がばれてしまいそうで――
「い……妹扱い、しないで!」
やっとのことで絞り出した言葉は、空気に溶けて、カナデの笑い声にさらわれていった。