第十三話 涙の理由(1)
夏の湿気が、肌にまとわりついて不快だった。朝、鏡の前で時間をかけてまとめたハーフアップは、もう半分ほど崩れている。結んだはずの束は頼りなく、毛先だけがやけに元気に跳ねていた。
画面の暗いスマートフォンに映った自分に、思わず息が漏れる。せっかく、ちょっと高いトリートメントを買ったのに。指先で髪を押さえて直しながら――心の中に残っている言葉を、また思い出してしまう。
『ミナってなんか、妹っぽいじゃん』
妹っぽい。可愛い。放っておけない。面倒見たくなる。どれも嬉しいはずの言葉なのに、どうしても引っかかる。守られる場所に引き戻されるみたいで、その先へは行けないと言われた気がした。
わたしは、妹になりたいんじゃない。じゃあ、何になりたいのかは――まだよくわからない。でも今日は、せめて見た目だけでもいつもと違うふりをした。落ち着いた紺のワンピース。それに、髪型だって。だけど鏡の中で何度顔を引き締めてみても、結局わたしはわたしのままだった。
電車の到着を告げるベルが鳴った瞬間、身体がかっと熱くなる。暑さのせいじゃない。鼓動が呼吸に追いつかなくなって、口の中が渇いていく。わたしはただ電車に乗るだけなのに、まるで試験みたいに緊張している。
会いたい。会ったら苦しい。でも会いたい。
滑り込んできた、銀色の車体の扉が開く。冷気がふわっと流れてきて、汗が一瞬で冷えた。だけどその冷えが、逆に火照りを思い出させる。
「……あっ、ミナ。こっちこっち」
端の席で、カナデが軽やかに手を振っていた。相変わらず涼しげな顔で、無造作な笑顔で。それだけで、世界が少しだけ眩しくなる。
わたしは足元を確かめるみたいに一歩踏み出して、ぎこちなくその隣に腰を下ろした。距離が近い。近いのに、触れていない。触れていないのに、温度が上がる。
「おはよう。今日もミナは可愛いね。髪型も、いつもと違う」
さらりと落ちたその言葉に、心臓が跳ねる。嬉しい。嬉しいのに――褒められた瞬間、あの言葉が遅れて胸をひりつかせた。
ねえ、カナデ。わたし、今日は少しでも……妹じゃなくて、ちゃんとした女の子に見えた? そんなこと、聞けるわけがないのに。
カナデは何も気にせずいつもの調子で座っていて、肩の力が抜けている。きっと、何も思ってない。わたしがどれだけ頑張ったかなんて、たぶん深くは考えていない。それなのにわたしはたった一言で、こんなにも簡単に浮かれてしまう。
悔しい。情けない。でも、好き。
自分の掌が熱い。ワンピースの布が膝に張りついて、息を吸うたび呼吸がうるさい。これが恋だと、もうわかってしまっているから――カナデが笑うだけでわたしの中の「普通」は、また簡単にほどけてしまう。
「……ねえ。そういうこと、誰にでも言ってるの?」
恥ずかしさを誤魔化すように、声を尖らせたつもりだったけれど、自分の耳には妙に弱く聞こえた。本当は、聞きたいのはそんなことじゃない。「わたしだけ?」と聞きたいのに――それを口にした瞬間、全部が壊れてしまいそうで、わたしは別の言葉を選んでしまう。カナデは一瞬だけまばたきをして、それから軽く笑った。
「誰にでも……そんなわけないじゃん。そもそも私、友達がミナしかいないしね。今までも別に、ほのかくらいだったし」
その返事があまりにも淡々としていて、拍子抜けする。どこか素っ気なく「ふうん」と相槌を打って、目線を窓に逃がした。走っていく景色に、わたしの鼓動だけが置いていかれる。
嬉しくて頬が緩んでしまいそうなのに、指先が固くなる。もし、それが今だけの言い方だったらどうしようなんて、勝手に怯える。
「……じゃあ、ほのかちゃんには言うんだ?」
わざと名前を出した瞬間、自分の胃が小さく軋んだのがわかった。だけど、カナデは肩をすくめるみたいに笑って、何てことなさそうに答えた。
「ほのかには言わないよ。ほのかは真面目すぎて、からかい甲斐がないからね」
「……ちょっと。ねえ、それ、どういうこと……!」
「えっ? そのまんま」
軽やかに笑う声が、わたしの必死さを飛び越えていく。まったくもう、人の気も知らないで。だけど――こうやって言い返せるようになったのは、きっと進歩だと思いたい。少し前のわたしなら、たぶん黙って勝手に不安になって、ひとりで苦しくなって終わっていた。カナデが誰を見ているのか、そればかり気にして――肝心の自分の気持ちは言葉にできないまま、胸の中で押し潰していた。
今だって怖い。でも、怖いままでも隣にいたいと願ってしまう自分がいる。
「ははっ……ミナ、そんなむくれないでよ。ごめんって」
笑いながら、カナデが少しだけ身を寄せる。たったそれだけで、空気が変わる。わたしの心は、そんな動作にあっさり釣られてしまった。
「相変わらず、ミナはからかうと面白いよね」
それは、冗談みたいな言い方だった。なのに、次の言葉が落ちてきた瞬間、わたしの心がぐらりと揺れる。
「でも、ミナのことは本当に……可愛いと思ってるよ」
可愛い。その単語だけが、やけに鮮明に耳に残る。どこまでが本気で、どこまでが戯れなのか、わからない。もしかして、これも妹としての可愛いなのだろうか。そう思った瞬間嬉しさの底に、ちくりと針が刺さる。
カナデは、わたしがその言葉をどう受け取ってしまうのか、気づいていない。無自覚に、平然と。ずるいくらいに、わたしの心を掻き乱してくる。
「……もう! カナデのバカ……!」
吐き出した声は、拗ねたみたいに震えていた。顔を背ける。優しい声も、視線も、今は正面から受け止められない。
好きで、苦しい。嬉しくて、悔しい。必死なのはわたしだけで、その必死さが届いていない気がして、さらに苦しい。
だから――せめてひとつだけ、わたしも何かを投げ返したかった。からかわれて終わりじゃなくて、負けたままじゃなくて。ほんの少しでも、同じ土俵に立ちたくて。
「……カナデも、すてきなんだから」
その声は小さくて、ちゃんとした言葉にもなっていなかった。自分の内側から、零れただけみたいな音。電車の走る音がそれをさらっていってくれて、ありがたいようで、少しだけ寂しい。
わたしの声は、たぶん自分にしか届かないほど小さかった。それでよかった。これ以上踏み込みすぎたら――もう、戻れなくなってしまいそうだったから。
数駅先の駅に停車すると、若葉と日菜子が乗り込んできた。きょろきょろと辺りを見渡すふたりに、わたしは小さく手を振って応える。平日昼間の電車内は、まばらな乗客ばかり。笑い声が、少しだけ響いていた。
「やあやあ、おふたりさん。なんか既に楽しそうだねー? あ、松波奏。今日は来てくれてありがとねん」
わたしの隣にするりと滑り込んできた若葉が、やけにテンション高くそう言った。
「汐見さん。こっちこそ、誘ってくれてありがと。私、邪魔じゃなかった?」
カナデは変わらぬ口調で、すっと応える。その自然体があまりにもいつも通りで、なぜか肺が狭くなる。
「いや、松波奏に来てもらわないと困るし。私らも、もっと松波奏と仲良くなりたいんだぜ。なー、日菜子氏?」
わたしの横から、若葉がぐいっと前のめりになって力説する。その横で、日菜子もふわりと頷いていた。わたしはそんなふたりを見ながら、思わず眉を寄せる。
……本当に大丈夫かな、このふたり。
昨日釘を刺しておいたけれど、返ってきたのは『めちゃくちゃ援護射撃するから任せてよ!』という、心許ないメッセージだった。




