第十二話 少しずつの勇気(4)
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カラオケボックスの薄暗い部屋の中、わたしはトランペットを握ったまま――カナデの横顔を見つめていた。暖色のライトがその頬を淡く照らして、光と影のコントラストがあまりにも綺麗で、胸がぎゅっと締め付けられる。すっと通った鼻筋。繊細にカーブしたまつ毛の影。光を反射する、なめらかな輪郭。
――こんなに綺麗で、いいのだろうか。
見ているだけなのに、呼吸が浅くなる。音を出す前から息が乱れているのが自分でもわかって、情けないのに止められない。
いつ見ても、息を呑む。呼吸の仕方を忘れてしまうくらいに、ただ、見惚れてしまう。日菜子が以前「かっこいい」と言っていたし、世間的にかっこいい顔に分類されるのかもしれない。だけど、わたしにとってのカナデは、そんな言葉では片づけられない。
このあいだ若葉に変なことを聞かれたせいで、視線が勝手に口元に吸い寄せられる。ほんのり桜色の、柔らかそうなその唇。笑ったときの端の形。息を吸うときのわずかな動き。見ているだけで身体のどこかがきゅっと絞られて、指先に汗が滲む。ピストンが滑りそうで、わたしは慌てて握り直した。
もしも触れたら、どんな感触がするんだろう。もしも、そこに自分の息が混ざったら――。
――キスしたい? 想像した瞬間、頭の中が一気に熱くなって、耳の奥がじわっと燃えた。心臓の音がどんどん大きくなる。まるで、楽器の中で空気が暴れているみたいだった。
咄嗟に俯いて、トランペットの金色に視線を落とす。逃げたはずなのに、顔が熱い。指先も熱い。息まで熱い。
「……ミナ、大丈夫?」
ふいにかけられた声に、身体が跳ねた。視線を上げると、マウスピースに唇を当てかけていたカナデが、眉を寄せてわたしを見ていた。その目が、ただただ優しい。心配そうで、あたたかくて、ずるいくらいに――優しかった。
「……もしかして、また熱中症? ちゃんと水分、取らなきゃだめだよ」
自分のトランペットをテーブルに置いて、カナデはすっと腕を伸ばしてくる。冷房に当たって冷えたその掌が、額に触れた瞬間――体温が跳ね上がった。冷たいと思った次の瞬間に、身体の芯がかっと熱くなる。触れられたのは額だけなのに、背中の奥までぞくりと波が走って、息が喉の途中で引っかかった。やめてと言いたいのに、やめないでと身体が先に思ってしまう。そんな自分が怖くて、わたしは目を瞬かせる。
「か、カナデったら……! 大丈夫だから……! ごめん、ちょっとぼーっとしてた……寝不足かなあ……」
恥ずかしさに慌てて手を振り払い、なんとか笑って誤魔化そうとするけれど、うまくいかない。だって今のわたし、完全にだめな顔をしていた気がする。絶対に、ばれてはいけないのに――それに、カナデと楽器を練習している最中に、こんなことを妄想するなんて。自分が自分じゃないみたいで、落ち着かない。ついぱたぱたと片手をあおぐと、カナデは心配そうに首を傾げた。
「……本当に? じゃあ、ちょっと休憩しようか。ミナ、眠いなら横になれば?」
そう言いながら、ソファーに座ったカナデが足を揃え、自分の太腿をぽんぽんと叩いた。一瞬、意味がわからなかった。いや、わかった瞬間に、脳が止まった。わたしの思考が固まった隙に、カナデが困ったように笑って、両手を伸ばしてくる。
「ほら、ミナ。おいで」
「えっ? や……ちょっと……! カナデ……!」
断る言葉だけが先に出るのに、身体が追いつかない。何かを言う前にあっさりと楽器を取られ、頭を引き寄せられて――次の瞬間、わたしの頬がカナデの太腿に落ちた。
柔らかい。柔らかいのに、逃げ道がない。スキニージーンズ越しのぬくもりが、頬からじわじわ広がって、脳の奥まで溶かしていく。心臓が一度だけ大きく跳ねて、そのあと暴れるみたいに速くなる。
焦って顔を背けようとすると、カナデの細い上半身が近くにあって、呼吸がぶつかりそうなくらい距離がない。カナデの服から、ふわっと漂う柔軟剤の香り。甘くて、清潔感のある匂い。吸い込んだら最後みたいで、息を止めたのに――身体は勝手に、もう一度吸ってしまっていた。
ああもう、無理だ。
「カナデ……! 本当に大丈夫だから……!」
「はいはい、顔真っ赤だよ。少し休みな」
覗き込んでくるカナデの顔が近くて、至近距離すぎて、目を合わすことなんてできなかった。顔を背けると、その瞬間――カナデの指が、髪に触れた。さらり、さらりと優しく髪を梳かれていく。そのたびに頭皮が疼いて、背筋が震える。カナデの指先が、わたしの中で雷みたいに跳ねていた。
なんで、こんなに優しいんだろう? どうして、そんなことするの。ずるいよ。知らないくせに。知らないから、できるの?
息が詰まる。指が髪を梳くたびに、思考がどろどろと溶けていく。わたしの身体が、わたしじゃないみたいに熱を帯びて――どこが手で、どこが足で、どこが胸なのかもわからなくなる。
――こんなことになるのなら、いい香りのヘアオイル、使ってくればよかった。
そんな後悔をしながらも、思考がぐるぐると暴走していく。なのに身体は、カナデの膝の上から動こうとしない。目をぎゅっと瞑って、せめて心臓の音が聞こえないようにした。だけど、そんなのできるわけない。耳の奥で、どくどくと鳴っている。
「ねえ、カナデ……。何してるの? 面白い?」
沈黙に耐えきれず、わたしは膝の上から小声で問いかけた。まぶたをゆっくりと開けると、カナデはわたしの髪を撫でながら、ふっと笑った。
「面白いよ。……もし妹がいたら、こんな感じなのかなって思ってさ」
「妹……!」
予想外のその言葉が、心臓に突き刺さる。はっと息を呑み込むと、カナデと目が合った。優しそうに細められた瞳。微笑む唇の端。整った顔立ちに浮かぶその笑みが、あまりにも無防備で――何も言えなかった。
「ははっ。ミナってなんか、妹っぽいじゃん。恥ずかしがりでいつもあわあわしてるし、ちょっと頼りなくて。面倒見たくなるというか……放っておけないんだよね」
冗談めいたその口調に、軽く笑い混じりの声が重なる。だけどその冗談は、わかってはいたけれど――わたしの心には、全然軽く響かない。
妹、か……。その言葉は優しいのに――わたしが行きたい場所からは、一番遠い呼び名だった。
そうか、カナデにとって、わたしは「妹」なんだ。わたしのこの気持ちなんて、カナデはきっと知らないし、考えたこともない。だけど、いざ目の前で言われると――思っていたより、堪える。
違う。わたしは、カナデの妹になりたいんじゃない。妹――そう言われるのは、別に嫌じゃないけれど。その言葉は優しくて、わたしにとってはちょっとだけ残酷だ。
カナデの指は何の悪気もなく、わたしの髪を梳いていく。その指先はあまりにも優しくて、慈しみに満ちていて――だからこそ、少し痛い。
わたしが今抱いているこの気持ちは、ただの庇護欲で包まれているだけで――まるで違う世界のものみたいだった。それは、兄が妹に向けるような、無意識の庇護でしかなくて。そう思った瞬間、カナデの背後にお兄さんの面影がふとよぎる。
――大切なものは、守る。カナデがいつも当たり前のようにしてくれるその優しさは、お兄さんから教わった在り方の延長なのかもしれない。
それがどれほど甘くて、どれほど苦いか。胸の奥がひりひりする。笑顔の裏で、わたしの心は少しずつ削られていく。わたしがどんな気持ちでここにいるかなんて、カナデはきっと、想像もしない。
またひとつ軽い笑い声が降ってきて、そのたびにカナデの身体がゆるやかに揺れる。その揺れに合わせて、膝の上のわたしもかすかに動いて――火照った身体が、さらに熱を帯びていく。何も言えない。ただ目を伏せて、息を殺して、そっと手を胸元に当てた。脈打つ鼓動が、せめて聞こえないようにと願いながら。
カナデの指が、髪を梳くたびにさらりと音を立てる。つい心地良さにまどろみかけたそのとき、テーブルの上に置いたスマートフォンが振動音を響かせた。現実に引き戻されて、わたしははっと目を開ける。
「ミナ、携帯光ったよ」
カナデが手を伸ばし、スマートフォンをわたしに差し出してくる。カナデはちらりと自分のスマートフォンに視線を向けて、不思議そうに声をあげた。
「……あれ、私にも何か来てる」
受け取った画面に目をやると、通知の主は若葉だった。いつの間にか、新しいチャットグループが作られていて――メンバーは、若葉と日菜子、わたし、そして……カナデ。
『夏休み中に、四人でどこか遊びに行かない?』
「……えっ」
浮かんだ吹き出しに、わたしとカナデの声が重なった。驚きと同時に、わたしの胸はほんの少しだけ弾んでしまう。一方のカナデは眉をわずかに下げて、スマートフォンをじっと見つめていた。
「……私も? この前も、汐見さんから突然誘われたけど……。私、邪魔じゃない?」
困ったようにわたしを見下ろす瞳には、少しだけ戸惑いが滲んでいた。膝枕をされたままの状態で目が合うのが、少しだけくすぐったい。
――これは……たぶん、若葉の采配だ。いや、采配というより……わたしを助けるための、お節介。思わず軽くため息を吐きながら、それでもわたしは笑顔を作った。
「ええと……若葉ちゃん、カナデと仲良くなりたいって言ってたから……。それに、わたしは……カナデが居てくれると……嬉しいよ」
少しの沈黙のあと、カナデは小さくまばたきをして、目を伏せた。唇をわずかに結んだその横顔は、どこか悩んでいるようでもあって――でも、その表情がすぐにふっと緩んだ。
「……そう? まあ、ミナがそう言うなら……」
呟くように言ってから、少しだけ笑ってみせる。カナデはいつも、わたしが嬉しいかどうかで動いてくれる。そういうところが、ずるいくらいに優しかった。
「人と遊ぶなんて、あんまり慣れてないからさ。やっぱり……急に誘われると、びっくりするね」
困ったように笑っていたけれど、その声はどこか、自分に言い聞かせるようだった。言葉の裏にあるのはカナデの人生の中で培われた、壁と孤独。だけど、きっとそれは、突き放すためのものじゃない。むしろ最近のカナデは――少しずつ扉を開けようとしているように見えた。
カナデはスマートフォンを操作して、若葉のメッセージに簡潔に返信していた。わたしも続けて、猫のOKスタンプを送る。
それにしても、カナデと遊びに行くなんて――楽器の練習で頻繁に会っているはずなのに、その言葉だけで、胸がふわりと浮く。でも、そこには若葉と日菜子もいる。きっとまた、とんでもない援護射撃が飛んでくるに違いない。
「ミナと遊びに行くの、楽しみだね」
カナデがスマートフォンをテーブルに置くと、また指が髪に触れた。さらさらと流れる髪をすくい上げる、その指の感触。ふいに降りてくるその声に、わたしは目を閉じて、小さく頷いた。
カナデの世界に、わたしたちの輪が少しずつ入り込んでいく。その輪の中で、わたしは少しずつ――逃げない勇気を覚えていく。息を吸って、吐いて。それだけのことが、今日は少しだけうまくできた気がした。




