第十二話 少しずつの勇気(3)
「いや……一概には言えないけどさ。恋愛的に好きなら、そういうこともしたいんじゃないかと思って。だって……恋愛的に好きじゃなかったら、できないっしょ」
言い方はどこまでも淡々としていて、冷静だった。若葉の言葉が、脳天にストレートで突き刺さる。その瞬間、カナデがわたしに顔を近づける光景が、勝手に頭の中へ流れ込んできた。
短い黒髪が揺れる。視界いっぱいに近づいてくる、綺麗な顔。わたしの頬に触れる、少し冷えた指先。長いまつ毛の影。真っ直ぐで、強くて、でも優しい瞳。
――カナデが、わたしだけを見ている。
息が混ざるほどの距離。触れそうで、触れない。だけどゆっくりと近づいてくる、その口元。身体の奥がぎゅっと締めつけられて、でも嫌じゃない。怖くもない。むしろ――。
「やっぱりムリ……!」
思わず叫んで、両手で顔を覆った。無理だけど、無理じゃない。そもそも、わたしは何を考えているんだろう。頭の中がカナデだらけで、心臓は壊れたみたいに暴走していて、身体の中から湧き上がる熱が止まらない。
「……美奈氏。今、何か変なこと考えたでしょ……」
顔を隠した指の隙間から若葉を見ると、じっとりとした目と目が合った。
「……違う! 若葉ちゃんのせいでしょ……!」
消え入りそうな声で反論すると、横の日菜子も苦笑していた。わたしは涙を浮かべたまま、もう一度顔を両手で覆う。若葉のせいで今のわたしは、絶対に真っ赤だ。耳の先まで熱が伝わり、恥ずかしすぎて今すぐ消えてしまいたかった。
「でも、なーんか……美奈氏のその様子を見ると、わかったっぽいね」
その言葉に、身体中の血が逆流した。若葉のせいで、嫌と言うほどわかってしまった。わたしはカナデとなら全然、キスでも何でもできてしまう。むしろ――カナデじゃないと、嫌だとさえ思ってしまう自分がいた。
テーブルに頭をぶつけそうになりながら、涙ぐんで鼻をすする。わたし、カナデのことになると――本当にもう、どうかしている。触れたくて、聞きたくて、見てほしくて、名前を呼ばれるだけで泣きそうになる。どうしたって、止められない。
――カナデが好き。恋として、好き。誰よりも近づきたい。ひとり占めしたい。それがわたしの、「好き」だった。
「ま、まあ……若葉ちゃんが言ったことは、とりあえず……置いておいて……」
日菜子が困ったように笑って、話題を切り替えてくれた。
「美奈ちゃん的には……松波さんとどうなりたいとか、あるの?」
そう問いかけられて、わたしは思わず背筋を正す。カフェラテの入ったマグカップを見つめながら、ゆっくりと息を吸った。
わたしはカナデと、どうなりたいか。カナデのことを恋として好きなら、わたしはカナデの恋人になりたいのだろうか。でも……。
「どうなりたいかは、まだ……よくわかんないんだよね。今でもカナデはわたしのことを、すごく大切にしてくれているし……。それに、きっと気持ちを伝えたら……」
言いかけて、言葉が喉の奥で止まった。怖かった。関係が壊れてしまうことが、想像よりもずっと怖い。そんなわたしを、日菜子が静かに見つめていた。「分かってるよ」と言いたげに、柔らかく頷いてくれる。そのまなざしに背中を押されるようにして、わたしは尋ねた。
「……日菜子ちゃんは、女の子に告白するの……怖くなかったの?」
質問の言葉が空気を切った瞬間、日菜子の表情がわずかに揺れた。呼吸が止まる気配がして、彼女はゆっくりと目を伏せた。
「……もちろん。怖かったよ」
ぽつりと返されたその声は、どこまでも静かで――重かった。
「蒼ちゃんのことを好きになった時も、すごく動揺した。自分がおかしいんじゃないかって、何度も思ったよ。この気持ちは間違ってるって、否定しようとして……それでも、どうしても、蒼ちゃんが好きだった。誰よりも、一番に考えてしまって。目で追って、声を聞きたくて……。でも、もしその気持ちを伝えたら、気持ち悪いって思われるかもしれない。距離を置かれるかもしれない。……そう思うと、本当に……怖くてたまらなかったな」
わずかに震える指で、日菜子はマグカップの縁をなぞる。その仕草が、胸に痛いほど響いていた。
「でも……気持ちを隠して過ごす方が、もっと辛かったんだよね……」
ふと、日菜子は顔を上げて、微笑んだ。
「一緒にいて楽しいのに、私の本当の気持ちだけが嘘をついてる。好きだって思えば思うほど、自分を偽るのが苦しくて……。このまま友達でいられたら十分って、言い聞かせてたけど……本当は、そんなの嫌だった。蒼ちゃんの一番になりたくて、特別になりたくて……でも友達のままじゃ届かないって、気づいてしまったから」
その言葉に、まぶたがじんと熱くなった。
「だからね、最後は怖さじゃなくて……もう覚悟だったかな。振られても、嫌われても、今の気持ちを嘘にしたくなかった。どうしても……好きって伝えたかったの」
ふわりと笑う日菜子を見て、目の奥が潤んだ。日菜子の言葉が、まっすぐに心に届いてくる。
――この子は、本当に勇気を出したんだ。怖くても、不安でも、その先の「好き」を届けたんだ。
気づかないふりをして、蓋をしていた気持ち。誰かを好きになってしまったら、簡単には戻れない。それが女の子同士であっても、きっとそれは関係ない。この気持ちは、嘘じゃない。
「なるほどねん。日菜子氏は……関係が崩れる怖さより、気持ちを偽ることの方が嫌だったってわけか。しかも、タイミングもあったよね。卒業っていう節目が、背中を押したのかもな……」
若葉はテーブルの上で両手を組んで、ちらりとわたしを見た。なんだか気まずそうな表情をして、うーんと小さく唸っている。
「……しょーじき、今、美奈氏が告白したら……松波奏は恋愛とか疎そうだし、意識してもらえるきっかけにはなるかもしれないけど……。このまま仲良くし続けられるかって言われると、わかんねえな……」
若葉の言葉は、軽いようでいて――鋭かった。まるで、心の一番奥に隠していた不安を、見透かされたみたいで。その一言が静かに、でも確実にわたしの胸の底に沈んでいく。わたしは視線を落とし、震える両手を握りしめた。
「……だよね。伝えたら……今の関係が、壊れちゃうかも。それなら、やっぱり……言えないよ」
小さく呟いた声が、空気に溶けて消えていく。カフェの送風口から冷たい風が吹きつけて、火照った頬を撫でていた。そのひんやりとした感触が、熱くなりすぎた気持ちを冷やしていく。
――カナデはきっと、わたしを嫌ってはいない。優しいし、真っ直ぐで、わたしのことを大切にしてくれている。だけどそれは「友達として」であって、「恋」じゃない。わかってる。カナデはきっと、誰に対してもあんなふうに真摯で、思いやりに満ちていて。だからこそ、そこに甘えてしまったら――もう戻れなくなる気がする。
『……ミナと出会ってから、毎日楽しいよ。ありがとね。これからも一緒にいてくれると……嬉しいんだけど』
もし気持ちを伝えて、何かが変わってしまったら。今みたいに、隣で笑っていられなくなってしまったら――そんなの、わたしはきっと耐えられない。
「気持ちを隠したままで、美奈ちゃんは……辛くない?」
日菜子が、静かに問いかけてくれた。その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
そんなの……そんなのわかんない。だって好きだって気づいたのだって、最近なのに。もしかしたら――好意を隠し続けることは、すごく辛いことなのかもしれない。だけどそれより、もっと怖い。カナデの隣にいられなくなることのほうが、ずっと――。
「……わかんないけど、わたし……カナデと一緒に、居続けたい」
それが、本心だった。欲張りかもしれない。でも、今この距離を、絶対に手放したくなんてない。この想いを伝えることで、大切なものを失うくらいなら。
「たとえ、恋人になれなくても……今の関係が続いてくれるなら、それで……。本当はちょっとだけ、嘘かもしれないけど……。それでも、壊したくない……今が、わたしにとって……一番大切だから」
泣きそうな自分を誤魔化すように、マグカップを両手で包んだ。カフェラテはもうすっかり冷めていたけれど、その苦さが今の気持ちにぴったりだった。
「ま、今無理にどうこう決めなくても大丈夫でしょ。ある日突然伝えたくなったりするかもしれないしねー。そんな気負いすぎず、気楽に行きなよ」
若葉の軽い声が、ふっと沈みかけていた空気をすくい上げた。あっけらかんとしたその笑い声に、わたしは小さく笑ってしまう。
「そうだよね、今すぐじゃなくてもいいよね……。今は、とりあえず……カナデとの時間を、大切にしてみようかな」
ふたりに頷いて、わたしは冷めきったカフェラテに口をつけた。薄茶色の液体に浮かんだ泡が、静かにしぼんでいく。もう弾ける力もないみたいだった。だけど、カップの奥にはまだ、ぬくもりがわずかに残っていた。




