第二話 響きあう放課後(1)
いつも通りの一時間目。教室の窓からは柔らかな春の陽が差し込んでいて、ノートに映る影がゆらりと揺れた。まだ夢の中みたいな、どこか現実味のない時間だった。ぼんやりとしていると、ブレザーのポケットがそっと震える。スマートフォン。音は鳴らしていないのに、なぜか教室全体に響いてしまった気がして、思わず肩をすぼめた。
机の下でこっそり画面を覗き込むと、そこにあったのは――松波奏という名前だった。昨日、友達登録したばかりの名前。まだほんの数回しかやり取りをしていない、まぶしくて不思議な女の子。だけど、胸の奥がひとつ、小さく跳ねた。
『今日の放課後、駅前のカラオケに来れる?』
メッセージは、たったそれだけ。なのに、心がざわついた。これは誘われた、のだろうか。もしかして、昨日の続き? いや、でも――何かのついでかもしれない。だけど、カラオケ……。
メッセージを眺め、放課後のスケジュールを考える。と言っても、わたしは部活も習い事もしていないし、放課後遊ぶような友達もいない。つまらないわたしには、虚しいけれど予定なんてあるはずなかった。
すぐに返信するのは、ためらわれた。指先が何度も、画面をなぞる。『了解』と打っては消し、『行きます』と書いては悩み……どの言葉がカナデに返す正解なのか、よくわからない。
重たくなった手でようやく『大丈夫だよ』と打ち込み、苦し紛れに『!』を付けておく。だけどなんだか硬い気がして、指先がスタンプを探していた。
やっぱり、『オッケー!』のほうが、よかったかな。絵文字もあったほうが……いや、変に浮ついてると思われるかも。でも、そもそもこれは友達同士のメッセージで――だけどカナデって、友達……? そんなふうに頭の中でぐるぐると文字を並べては削っていると、あっさりと既読がついた。
『あとでまた連絡するね』
それだけの短い返信なのに、息を吐いた。よかった、ちゃんと返ってきた。怒っていないし、無視もされていない。それだけのことが、なぜこんなにも安堵を呼ぶのか、自分でもわからない。
画面を伏せて、そっと机の中にしまう。胸の奥でくすぶっていた何かが、ようやく落ち着いた気がした。
昨日会ったばっかりで、まだ知り合いにもなれていないのに。それでもカナデのあの音を、聴いてしまったから。あのまぶしさに、触れてしまったから。わたしの中で、何かが少しずつ、変わってしまったのかもしれない。
それからの授業は、ほとんど頭に入ってこなかった。ノートに書いた文字はどれも頼りなく、心ここにあらずの走り書きばかり。時計の針が少しでも進むたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
六時間目が終わる直前、ポケットのスマートフォンが小さく震えた。再び机の下でそっと確認すると、カナデからのメッセージだった。
書かれたのは駅前にあるカラオケ店の名前と、部屋番号。ただそれだけの情報なのに、鼓動が一段と速くなる。
カナデは、もうそこにいるんだろうか。サボり魔という印象は、あの朝の自由な背中からすっかり刷り込まれてしまっているけれど――それでもこうして先に行って待っている姿を想像すると、なんだか不思議な気持ちになった。
終業のチャイムが鳴り響くと、教室が一斉にざわめき出す。部活に向かう同級生たちの声が重なって、廊下へと流れていく。いつも通りクラスメイトに手を振って、わたしは静かに鞄を肩にかける。
でも、今日は違う。まっすぐ帰るだけのはずだった放課後に、わたしのための予定がある。たったそれだけのことで、世界の色が少し違って見えた。
制服のスカートが歩くたびに揺れて、駅へと続く道のりを踏みしめる。いつもより風が涼しく感じるのは、気のせいじゃないと思った。
バスに乗り込んで、揺れる車内で座席に腰を下ろす。ただ景色を見つめているだけなのに、胸の奥がずっとざわついている。まるで、心臓の鼓動だけが騒がしく浮き上がっているみたいだ。
――どうしよう。なんか、緊張してきた。カナデは、わたしが行っても迷惑じゃないのかな。あんなにまぶしくて、自由で、音を持っている人が……どうして、わたしなんかを気にかけてくれるんだろう。
ぎゅっと握りしめていた、スマートフォンの画面を見つめる。カナデの名前の下に並ぶ、たった数行のやり取り。その少なさが、距離を物語っているようで、目を逸らした。
それでも――行きたいと思った。名前を知ってしまった。音を知ってしまった。昨日、防波堤で見た光景は、まだ胸の奥にしっかり残っている。
あんな風に、音で誰かを動かせる人がいることを、わたしはもう知ってしまった。
カナデに会いたい。……きっと、わたしはそう思っている。
***
指定された店の前で、深呼吸をひとつ。連れが先に来ていると受付で伝えると、年配の男性スタッフがすぐに頷いた。
「ああ、奏ちゃんから友達が来るって聞いていましたよ。この階の、一番奥の部屋です」
そう教えてくれた声は穏やかだったけれど、「奏ちゃん」と呼ぶその響きが、どこか特別に聞こえた。
――店員さんに、名前も覚えられているなんて。やっぱり、常連なんだ。
そう思うだけで、胸の奥がそわそわと騒がしくなる。ドリンクバーのコップが、手の中で微かに揺れていた。烏龍茶の表面に、波紋が広がる。なんてことない午後の風景なのに、今日だけは足取りが落ち着かない。
部屋の前に立つと、扉の向こうから音が聞こえた。こもった、けれど確かなトランペットの音。単なる試奏じゃない。吹こうとして、吹いている。誰かに聴かせるためではなくて、ただ自分のために――そんな気配が、扉越しに伝わってくる。
どうしよう。何て声をかければいいんだろう。おはよう、だと変かな。こんにちは? それとも、昨日のお礼を先に言うべき……?
そんなことばかり考えているうちに、手がじんわりと汗ばみ始めていた。結局何も決められないまま、ドアノブをそっと回す。
瞬間、音が空気を割いた。澄んだ、でもどこか挑むような鋭さを帯びた音――それは真っ直ぐに胸を撃ち抜いて、わたしの中に染み込んだ。
「……ああ、ミナ! 来てくれたんだね、お疲れ様」
こちらに気付いたカナデが、ぱっと顔を上げる。口元からトランペットを離したカナデは、昨日と同じように軽やかに笑っていた。
だぼっとしたパーカーに、細身のジーンズ。制服ではなかった。つまり、今日一日、学校には来ていないということだ。それを気まずそうにもせず、当然のようにここで待っていた――そのことが、わたしにはまだ理解しきれない。
微かに暗い部屋の中、消音されたテレビだけがちかちかと点滅している。わたしは部屋をきょろきょろ見回して、小さく声を上げた。
「カラオケで楽器って吹けるんだね……知らなかった」
そう言って思わず、目を瞬く。トランペットが置かれたテーブルの上には、譜面やファイルも散らばっていて、部屋全体が練習場所として使い慣れた空気を纏っていた。
「店にもよるけど、ここは練習オッケーだからよく来るんだ。部屋も防音仕様だし」
そう言ってカナデは、指の背で壁を軽く叩いた。とん、と小さな音がすぐに吸い込まれていく。静かだった。静かすぎて、耳が変に冴えるようだった。
わたしは促されるままにソファーの端へ腰掛け、烏龍茶を一口すする。喉は渇いているのに、味がしなかった。
「それよりさ、今日はミナにこれを渡したくて」
カナデが不意に身を乗り出して、わたしの隣の空間に荷物を置く。軽く置かれたのは、四角ばったシンプルな楽器ケースだった。見慣れないもの。だけど、どこか存在感があって、開けていいのか戸惑ってしまう。
「開けてみてよ」
そう促されて、恐る恐る金具に手を伸ばす。指先で金具を外すと、ぱかりと静かに蓋が開いた。
中にいたのは、金色のトランペットだった。手入れが行き届いている。塗装のくすみもなくて、深く柔らかな光を湛えている。まるで、そこにずっと息を潜めていた何かが、ゆっくりと目を覚ましたみたいだった。
「これは、私が中学の頃まで使ってた楽器。今は全然使ってないから、私の代わりに使ってあげてよ。昨日、手入れもしといたから」
「えっ……でも、そんな……」
さらりとそう言われて、感謝よりも戸惑いが先に来る。ありがとうも、嬉しいも、どうしてわたしに? も。全部が喉の奥で渋滞して、何も言えなかった。
「自分のがないと、練習できないでしょ? それに、この子も……誰かが吹いてくれたほうが、喜ぶからさ」
この子――カナデは確かに、そう言った。まるで、命があるみたいに。きっとそれだけ、この子はカナデにとって大切な存在なんだ。そんなものを、わたしが受け取ってもいいのかな。
迷っているあいだにカナデがケースから楽器を取り出し、そっとわたしの膝の上に置いた。条件反射で、両手で支える。その瞬間、身体の奥が震えた。思っていたよりも重くて、あたたかかった。
これが、音になるもの。昨日防波堤で聴いた、空を裂いた音が、この中に宿っていた。だけど、本当にわたしに鳴らせるだろうか。これを手にするということは――逃げられなくなるということだ。昨日までの何も持たない灰色の自分には、もう戻れなくなる。




