第十二話 少しずつの勇気(1)
昼下がりのカフェは、外の熱気に比べてやけに冷えていた。冷房の風が足首を撫で、ガラス越しに夏の光だけがきらきらと反射している。わたしは性懲りもなくカフェラテを頼んで、ひとり端の席に座っていた。
本当は、苦いものは苦手。モカマキアートとか、ココアとか、そういうわたしに合っている味を選べばいいのに。なのに、指が勝手に、あのメニューを指していた。
カフェラテ。カナデがこの前、何でもない顔で飲んでいたやつ。口にした瞬間の苦さがわたしの中のどこかに引っかかって、まだ取れない。
受け取ったカップの湯気を見た瞬間、胸の中がすっと熱くなる。馬鹿みたいに単純で、情けない。たったそれだけで、わたしの中の何かが「会いたい」に寄っていく。
――カナデが好き。
気づいてしまった。いや、気づいたというより――もうずっと前からそこにあったものを、やっと認めさせられた。潮風の中で手を握ったあの夜から、逃げ場みたいに使っていた「友達」という言葉が、うまくわたしを守ってくれなくなった。
好き。ただの好意じゃない。会いたくて、触れたくて、声を聞きたくて、目が合うだけで心臓が跳ねて、息が浅くなる。カナデへの「好き」は、そういう「好き」だ。
テーブルの上のカップを両手で包み込むと、熱が指先から伝わってくるのに、心の中だけが冷えていく。まだ誰にも見られていないのに、見られている気がする。まだ何も言われていないのに、打ち明けたあとの相手の顔が浮かぶ。
カナデも、わたしも、女の子。
頭では知っている。女の子同士でも、ちゃんと恋で――誰にも否定されるものじゃない。なのに、自分のことになると急に怖い。
わたしが? わたしが女の子を、好きになる? そう思った瞬間、わたしの中にあった「普通」が、音を立ててひび割れた。
――当たり前に進学して。当たり前に就職して。当たり前に素敵な男の人と出会って。当たり前に結婚して、子どもを持って。
教科書やテレビの中にある、まるで「正解」みたいな人生。別に、それを夢見ていたわけじゃない。きっと。だけど、そういう予定表が、わたしの中にも知らないうちに置いてあった。そこから外れていく自分を思い浮かべた途端、背筋がひやっと冷たくなる。道を踏み外す、というより――誰もいない場所に、急に放り出されるみたいで。
わたし、本当にこれでいいの? わたしの「好き」って、どこか間違ってるの?
思考を落ち着かせようとして、カップに口をつける。苦い。やっぱり苦い。だけど、嫌じゃない。喉を通る熱が身体の芯まで落ちていく感覚が、妙に落ち着く。
……おかしい。苦いのが苦手なはずなのに、どうしてだろう。わたしはたぶん、味じゃなくて――カナデを飲んでいるような気がした。そう思っただけで、心臓が飛び跳ねた。
自分が気持ち悪いくらいに単純で、情けない。恋なんて、もっと遠いところの話だと思っていた。なのに、わたしは今――カフェラテひとつで、こんなにもぐらぐらと揺れている。
誰にも、聞けなかった。何より――カナデには、絶対に言えない。
俯いてテーブルの端を見つめていると、そんなわたしの頭上に、ふわりと声が降ってきた。
「あれ、美奈ちゃん。またカフェラテ飲んでる。コーヒー飲めるの、羨ましいなあ」
ふいにかけられた日菜子の声に、わたしはびくりと肩を揺らした。顔を上げると、制服姿の彼女がふんわりと微笑んでいて――その優しさが、どうしようもなく胸に刺さった。その後ろでは、スワークルを片手にした若葉が、にやりと笑っている。
「でも美奈氏ってさあ、苦いの苦手じゃなかったっけー? 頑張ってるんだねー」
わざとらしく首をかしげて椅子に腰掛けた若葉の視線に、わたしはなんとなく視線を泳がせてしまう。その含み笑いが、全部お見通しみたいで。恥ずかしさと居心地の悪さに、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
「ふたりとも、忙しいのに呼び出しちゃって……ごめん」
席についたふたりの顔を見て、わたしは小さく頭を下げた。だけど、背筋を伸ばしたその瞬間――心臓が、どくんと跳ねる。緊張で、呼吸が浅くなる。胸が、痛いほど脈打っていた。
「ぜーんぜん。今日はうちも日菜子氏も部活の日だったから、ちょうど良かったよねー」
「うん。それに、美奈ちゃんがこうやって私たちを頼ってくれるの、すごく嬉しいから」
「分かるー! 美奈氏、最初は全然心開いてくれなかったから……相談してくれるのは嬉しいよね」
ふたりは顔を見合わせて、朗らかに笑う。その笑顔があたたかすぎて、逆に涙が出そうだった。だけど――それでも怖さが、胸を締めつける。わたしは無意識に、唇を噛んだ。
「ありがとう……」
震えた声が喉から零れた瞬間、わたしは自分の両手をぐっと握りしめていた。
今日、ここにふたりを呼んだのは、わたしだった。若葉はおちゃらけているけれど、誰よりも人を見ているし、なんだかんだで助言は的確。日菜子は何より――女の子の蒼と付き合っている。蒼の話をしたときの、あの強さ。この子なら、わたしの「怖い」を笑わない気がした。
「あ、あのね、わたし……」
声を出した瞬間、喉がぎゅっと締まる。あまりにも緊張しすぎて、視界の端が白く滲んでいた。身体の芯から冷えていくような感覚と、顔に集まる血の熱さが同時に襲ってきて――自分の身体なのに、何もコントロールできなかった。
カナデの後ろ姿に見惚れた日。音に、名前に、声に――触れられるたびに、心の奥が震えていた。頭を撫でられた手の感触が、まだわたしに残っている。心を奪われて、どうしようもなくなって、それでも――ずっと、気づかないふりをしていた。
言わなきゃ。わかってる。だって、わたしがこのふたりを呼んだのは、話を聞いてもらいたかったから。でも……今ここで言葉にしたら――もう、戻れない。怖い。逃げたい。だけど。
「あ……あの」
唇が勝手に動いた。それなのに、声が続かない。カフェの喧騒が遠ざかって、自分の心臓の音だけが耳の奥で鳴っていた。頭が真っ白で、怖い。怖くて、吐きそうだった。
「……うん」
そのとき――日菜子の柔らかくて、包み込むような声が聞こえた。視線をずらすと、日菜子の瞳が穏やかにわたしを見つめている。その声が優しすぎて、胸が縮む。救われたいのに、救われていいのかわからない。わたしはまだ、自分の「好き」すら怖がっているのに。
――美奈ちゃん、大丈夫だよ。
その無言のメッセージが、わたしの背中を押してくれた。唇が震える。やっぱり怖い。でも、ここで言わなきゃ、わたしはずっと……。
「わ、わたし……か、カナデのことが、す……好き……みたい……なの」
言ってしまった。
その瞬間、頭の中で何かが弾ける音がした。目の奥が熱い。顔が燃える。全身の力が抜けて、手が震える。わたしは両手で顔を隠して、うずくまるように身を縮めた。
こんな自分、どう思われるんだろう。笑われる? 引かれる? 気持ち悪がられる? わたしの「好き」って変なんじゃないかって、ずっと怖かった。それでも今――わたしは初めて、「好き」を口にした。
怖いのに、言いたかった。どうしてもこの気持ちを、誰かに知ってほしかった。




