第十一話 音の始まり(3)
奏は中学に上がっても、当然のようにトランペットを続けていた。迷いなんて、一度も見せなかった。
でも、律には分かっていた。あの中学の吹奏楽部は、雰囲気が緩すぎた。決して、部の空気が悪いわけじゃない。ただ、目指しているものが違っていた。
もっと上手くなりたい。もっと遠くへ行きたい。
常に牙を研いでいる奏には、あの場所は合わないと、最初から分かっていた。
……あの時に、やめておけよと言っておくべきだったのだろうか。でも、そのときは言えなかった。理由は――ほのかだった。
小学生の頃から一緒にいてくれるあの子だけには、奏も心を許しているように見えた。いつもピリピリしているのに、ほのかといる時だけは、どこか力が抜けていた。話しかけても怒鳴らないし、笑ってすらいた。唯一の友達ってやつだろう。
――あの子がいるなら、大丈夫だろ。でも、それが甘かった。奏は、想像以上に孤独だった。
「おい、奏。お前……部活はどうしたんだよ」
ある日の夕方、律が高校から家に帰って来ると、制服のままソファーに座り込んでいる奏がいた。その横には、奏の楽器ケースが転がっている。まぶたを閉じて眉間に皺を寄せている奏に、律は軽い気持ちで問いかけた。だけど、返ってきたのは――。
「は? 部活とか……どうでもいい。兄貴には関係ないじゃん。ほっといてよ」
冷たく、突き刺すような声だった。その口調に、律は何も言えなくなった。直感で、奏に部活はもう限界かもしれないと感じていた。案の定――その後奏は親を説き伏せて、個人レッスンに通い始めた。その決断の早さに驚きつつも、どこかで納得してしまっている自分がいた。
お前って、ほんとブレないよな。そのくせ、どうして――そんなに痛そうなんだよ。
反抗期の真っ最中の奏は、ますます口を利かなくなっていた。廊下で会っても、「は?」「キモい」と睨まれて、終わり。律を呼ぶあの無邪気な笑顔なんて、もうどこにもなかった。
だからこそ――その夜のノックには、驚いた。
「……ねえ、兄貴。最近、カラオケ屋でバイト始めたって……母さんから、聞いたけど」
律の部屋のドアの影から、奏が半分顔を覗かせる。目は伏せ気味で、いつになく小さな声だった。
「あのさ、そこって……楽器練習、大丈夫なとこ?」
口調はどこまでもそっけないけれど――その目には、少しだけ期待が滲んでいた。律は思わず頬が緩みそうになるのを堪えて、わざと真面目な顔で頷いた。
「何、練習しに行きたいの? たぶん大丈夫だと思うけど。一応店長に聞いとくわ」
それを聞いた瞬間、奏の表情がふっと和らいだ。
「……ありがと。大丈夫だったら、兄貴がいない時間帯に行く」
それは律があまりにも久しぶりに見た、柔らかい笑みだった。
「ふふ。ほのかを一緒に連れて行っても……いいかもね」
その言葉に、律は胸を撫で下ろす。
――ああ、よかった。ちゃんと、誰かに頼れてるんだな。
律はほのかの存在に、何度感謝したか分からない。あの子は優しいし、面倒見もいいし――奏みたいなめんどくさいやつにも寄り添ってくれる、稀有な存在だった。そう、信じていた。けれど、そんなほのかの手にも、奏は抱えきれなかったらしい。
しばらく経って、律がすっかり油断していた頃だった。
「奏、部活辞めたんだって」
予備校から帰ってひとり夕飯を食べていた律の前で、母親が何気なく呟いた。言われたその一言に、律は思わず聞き返していた。
「は? えっ、マジで? なんで」
母親も詳細は教えてもらえなかったらしく、「まあ……あの子のことだから、色々あったんでしょ」とだけ言った。理由は分からない。でも、分かる気がした。
奏は、きっと――誰にも本音を、ぶつけられなかった。どこにも居場所がなかった。唯一頼っていたはずのほのかにも、言えなかった。そして、一番近くにいたはずの自分も、気づいてやれなかった。
「は?」「キモい」――自分に投げつけられた、刺々しい言葉の数々。だけど、あれは助けを求めていたのかもしれない。もっとちゃんと、見ていれば。もっとちゃんと、話していれば。「お兄ちゃんなら分かってくれる」と、思わせてやれてたら。見てたつもりだったのに、何も見ていなかった。
――俺は、何も分かっていなかった。
部活を辞めた翌朝、奏は起きてこなかった。早く出勤した両親の代わりに律が部屋を覗くと、ベッドの上で小さく丸まった人影が見えた。
「おーい、奏。学校行かないの?」
声をかけてみても返事はなくて、布団はぴくりともしない。しばらく見ていても、動く気配がまるでなかった。寝てんのか? 起きてんのか? 壁に掛けられた時計をちらりと見て、今度は戯けた調子で呼びかける。
「奏ちゃーん。お兄ちゃんはもう学校に行きますけどー、奏ちゃんはどうするんですかー」
その瞬間に布団から腕が伸びてきて、枕が律めがけて飛んできた。
「うっさい! 放っておいて!」
見事なコントロールで放たれた枕を軽く受け止めると、布団の中から奏が起き上がってきた。短髪の毛先がぐしゃぐしゃに跳ねていて、目はどこか腫れぼったい。赤くなった瞳で、鋭く律を睨みつける。
「……学校は、もう行かないから。吹部も辞めた」
投げ捨てるような声だった。そのわりには喉の奥が震えていて、声がかすれている。睨む目にも、どこか脆さが滲んでいた。
律はゆっくりと近づき、何も言わずに、寝癖のついた頭に手を伸ばした。指先が触れた途端、すかさず叩かれる。
「ウザい! キモい! 触んな!」
そう言われても、律は撫でるのをやめなかった。もう一度、手を伸ばす。また、「やめてってば!」と叩かれる。それでも、三度目。四度目。まるで子供の頃の遊びのようだった。
「ははっ……なーんだ、元気じゃん。よかった」
そんな奏の姿にふっと笑って、律は肩をすくめた。
「学校も吹部も……別に、行かなくてもいいんじゃない? 義務教育だし、サボったところで卒業はできるから。奏がそうしたいなら、そうすればいい」
その言葉に――奏の動きが、ぴたりと止まった。驚いたように、目を見開く。叩いていた手が、重力に落ちた。青白い唇が少しだけ、震えていた。律はそのまま、固まった奏の頭を撫で続ける。
「でもさ……勉強だけはしとけよ? 学校サボったら、受験で引っかかることあるし。まあ試験さえできれば、そこそこの高校くらいは行けるだろ」
県内のトップ高に進学していた律は、真面目な声色で話しかける。そういえば、奏は東高を志望していると、母親が言っていたような気がする。奏の学力で東高に入るのは余裕だろうが、恐らく出席日数で引っかかる。こだわりがないのであれば、その下の海浜高くらいだったら行けるかもしれない。
「……分かった」
すっかり勢いを無くしてしまった奏は、俯きながら小さく呟く。反抗期のくせに、こういうときだけ妙に素直なんだよな――そんなことを思いながら、律は部屋の中を見渡した。視界の端に、トランペットのケースがあった。昨日帰ってきた時のまま、部屋の隅に放り投げられている。
律はふらりと近づき、そっと手を伸ばす。革の冷たい手触りが、ひやりと指先に伝わった。
「奏……トランペットは、どうするんだ?」
その問いには自分でも気づかないほど、かすかな震えが混じっていた。小学生の頃、ぎこちない構えで初めて音を出したあの日から、ずっと――奏の中にあった、唯一無二の核だった。それを――手放すのか?
律の不安をよそに、奏はゆっくりと顔を上げた。
「……トランペットは、辞めない」
静かな部屋に響いたその声には、迷いがなかった。
「私には、もうこれしかないから。今更辞めたら、私は……。だから、絶対に辞めない。ひとりでも、吹き続ける」
その目はどこまでも真っ直ぐで、どこか痛々しかった。声はまるで、自分を呪いで縛りつけるような――それでも足掻こうとする、意志の音に聴こえた。
律は何も言わずに奏に近づき、もう一度その頭を撫でた。叩かれるかと思ったけれど、もう、その手は落ちてこなかった。
「……そうかい。それは、良かったよ」
そう言ってから、律はしばらく黙っていた。乱れた髪をゆっくり梳きながら、ぽつりと尋ねる。
「なあ、奏。……お前、トランペットは好きか?」
その一言に、奏がぴくりと反応した。
「……は?」
まるで予想外の質問だったかのように、目を瞬かせる。そして、考えるように視線を落とし、何かを噛みしめるように沈黙した。しばらくして――奏は、そっと頷いた。
「……そっか。私、トランペットが好きなんだ。……そうだ、好き……」
それはあまりにも静かで、優しい声だった。いつもみたいに刺々しくもなければ、強がってもいない。ただ、心の奥からふっと零れ落ちた、本音のようだった。
勝ちたくて。認められたくて。負けたくなくて、噛みつくように吹いてきた。
でも、そのずっと前に――初めて音が鳴った時、胸がじんわりと熱くなった、あの感覚。ただただ、金色の光に見惚れて。夢中で音を出そうとして。世界の全部が、トランペットの音だけで満たされた、あの頃の気持ち。
奏はトランペットが、好きだった。悔しいとか、苦しいとか、そんな気持ちの下に――ちゃんと、好きがあった。それに気づいた瞬間、奏の瞳がわずかに潤んだ。
「ったく……しょうがねえな」
律は片手を伸ばして、がしっと奏の頭を鷲掴みにする。
「ちょっ……何すんの!」
「うるせえ!」
手加減なしで、頭をぐしゃぐしゃに撫で繰り回す。奏が「やめろってば!」と怒鳴っても、律は止めなかった。
「もういい。奏、お前は自由だ」
撫でる手を止めずに、言葉を続ける。
「何にも縛られんな。協調性? 空気読む? そんなものはクソだ。お前の演奏を、誰にも邪魔させるな! 好きなように吹け。怒ってても泣いてても、吹きたいなら吹け。否定されたって、関係ない。お前の音は、お前のものだ。奏だけのものなんだ。お兄ちゃんは――どんな奏でも、最後まで肯定し続けるから」
「……はあ? 何語ってんの……キモいんだけど! 言われなくても、そうするし……!」
奏は小さく吐き捨てながらも、律の手を振り払わなかった。最初は少しだけ身体をずらそうとしていたけど、やがて動くのをやめて、そのまままぶたを閉じた。
――本当に、俺の妹は……。不器用で生意気で、どうしようもなくて……それでも目が離せない。どこまでも可愛い、俺の妹。
その日を境に、奏は学校へ戻らなくなった。日中は近所の図書館やカフェで勉強したり、楽器が吹ける場所を探して街を歩き回ったりしていた。受験を終えて海浜高校に進学したあとも部活には入らず、ただひとりで、金色の楽器を吹き続けていた。
反抗期は、いつの間にか終わっていた。気づけば前より少しだけ性格が丸くなっていて――律が話しかければ「ウザい」「キモい」「うっさい」とは言うけれど、最近では「サブカルかぶれマッシュルーム頭」なんて新作の悪口まで追加された。それすら、どこか微笑ましかった。
――奏、もう一度吹奏楽部に入ってみればいいのにな。
ふと、そんなことを思う。今のお前だったら……もうちょっと、上手くやれるかもしれないぞ。でも、それを口にすることはなかった。何か、他に楽しいことを見つけたのなら――それならそれで、構わない。
律はそう思いながら、毎日妹の後ろ姿を見つめていた。自由に、誰にも縛られずに吹いている――あの頃よりも、少しだけ大人になった背中だった。
医学生になった律はベッドに寝転がり、薄暗い天井をぼんやり見上げていた。耳を澄ませば、隣の部屋から小さな笑い声が漏れてくる。前より少し柔らかくなった、その音。あの刺々しかった声が、こんなふうに誰かと笑い合う日が来るなんてな。
――奏、お前、ずいぶん変わったな。たぶん電話の相手は……あの子だろう。
『……お兄さん。わたし、カナデに無理に付き合ってるとか……そんなことは、ありません。カナデは、わたしに……居場所をくれたんです。カナデが楽器を教えてくれなかったら、わたし、何もなかった……。だから、わたし……自分で選んで、カナデの隣にいます。そして、これからも……一緒にいたいって、思ってます』
まぶたを閉じると、その言葉が律の耳に静かによみがえる。
――春日美奈。この前、バイト先のカラオケ屋で出会った女の子。最初は声も小さくて、気後れしているように見えた。でも、奏のことになると――震えながらも芯のある声で、真正面から言葉を返してきた。まるで、あの頃の奏みたいな目で。奏が彼女に託したという、楽器ケースをぎゅっと握って。
きっと奏はあの子だったから、良かったんだろうな。奏の呪いをあんなにも優しく、あんなにも真っ直ぐに受け止めてくれる子。
見た目は正反対のように見えるけど――似てるのかもな、あのふたり。弱さを抱えたままでも、真っ直ぐなところ。逃げずにぶつかっていくところ。不器用で、それでもとても強いところ。
奏は、あの子を救ったんだ。かつて、自分が音に救われたように。
隣の部屋から、また笑い声がした。軽やかに、音符みたいに弾けるその声。柔らかくて、あたたかくて――あんな声、いつぶりだろう。こんなふうに笑えるようになったんだな、お前。
律は目を細めて、小さく息を吐いた。やれやれ。もうお兄ちゃんは、お役御免かもしれないな。
奏、今度は上手くやれよ。今度は誰かと一緒に、ちゃんと音を楽しめますように。お前のトランペットが、もう「呪い」なんかじゃなくて、心から好きだと思えるものでありますように。
誰かに勝つためでも、誰かに認められるためでもない――ただ、奏が奏らしくいられるために音を鳴らせる日々が、ずっと続きますように。
それが、お前の音楽の、続きだ。
そして、その音を――お前が大切だと思える人が、ずっと隣で聴いてくれるなら。きっと、それ以上の幸せはないはずだ。




