第十一話 音の始まり(2)
奏が初めて音を出せたのは、それから何日か経ってからのことだった。音が出た瞬間にぱっと嬉しそうな顔をしたと思えば、もう奏にとって「音を出す」ことなんて、目的じゃなくなっていた。
「ヤダ! もっと練習する。お兄ちゃんは、学校で吹いてるんでしょ! 奏に貸してよ! 奏、まだ全然できてないんだから……! お兄ちゃん、教えてよ!」
そう言っては律の手から楽器を奪い、まるで喧嘩でもしているみたいに構えていた。息が切れても構わない。唇が痛くなっても、気にしない。むしろ、その苦しさすら嬉しそうにさえ見えた。
奏は、戦っていた。律に。音に。楽器に。でもたぶん、一番は――自分自身に。
「お兄ちゃんに負けたくない」という気持ちが、あの小さな身体の奥で火を噴いているのが分かった。まだ小学一年生の妹が、汗だくになってトランペットに食らいついてくる姿に――正直、律はちょっとだけ焦っていた。
奏は、成長速度が異常だった。音がどんどん変わっていく。最初は奇声みたいだった音が、だんだんと輪郭を持ち始め、音楽になっていく。楽器が、明らかに奏に懐いてきていた。
才能? そんな簡単な言葉じゃ説明できない。これは、執着だ。俺が楽器を見せつけてしまったあの瞬間、あの金色の光に――奏は心ごと、取り憑かれてしまったんだ。
――コイツ、きっと……いつか、俺を追い越すだろうな。
不思議と、悔しさよりも楽しさが勝っていた。律に縋るように「教えて」と言い続ける奏の姿が、少しだけ誇らしくて、でもやっぱり、ちょっとだけ悔しい。そんな感情を抱えながら――律は、妹にトランペットを教え続けた。
それから二年。奏は三年生、律は六年生になっていた。気づけば、奏はもう律のことを「お兄ちゃん」とは呼ばなくなっていた。「兄貴」――その言葉が最初に口を突いて出たのは、いつだっただろう。
ショートカットにした黒髪は毛先まで真っ直ぐで、無駄な装飾もなく、ただ潔く切り揃えられていた。横顔をかすめる前髪の奥、目つきはいつにも増して鋭く、まるで誰にも媚びないとでも言いたげだった。教室でも、廊下でも、奏はどこかひとりでいて――でもその姿には、奇妙な迫力があった。周囲の視線なんて意に介さず、ただ前だけを睨みつけるように歩く姿は、律の目にも少し眩しかった。
だけど――アイツ、あんなんで本当に大丈夫なのかよ? そう思いながらも目が離せなくて、気づけばいつも、視線が勝手に追っていた。
「……背、伸びたな」
家の中でふと呟いた律に、奏は「は?」とだけ返してきた。その態度すら、もう懐かしい気がする。律は小学校を卒業して、この春から中学生になる。最近ハマっているのは、バンド漫画。主人公がギターを抱えてステージに立つシーンに憧れて、律も独学でギターを始めようとしていた。
吹奏楽部? ――入らない。トランペット? ――もういいかなって、思ってた。
律とは入れ替わりで、奏がちょうど音楽クラブに入るらしい。なら、バトンは渡せる。ちょっとだけ名残惜しいけれど――なんだろうな。トランペットはもう、自分の楽器じゃない気がしていた。
「奏。今度の日曜に、音楽クラブの卒業コンサートがあるんだ。お兄ちゃん、ソロやるから。……来るよな?」
「……は? なにそれ……。まあ……行ってあげてもいいけど」
いつものように拗ねたような目で、奏は「で、何時からなの」とそっけなく返す。素直じゃないくせに、律の演奏のときだけは、毎回一番真剣な顔で聴いてくれていた。だったら最後も、かっこつけさせてくれよ。
「最後にお兄ちゃんが、奏のために最高にかっこいいソロを聴かせてやるよ」
「キモ……」
律がしたり顔でちらりと見ると、奏は顔をしかめたまま、すたすたと部屋を出て行った。相変わらずの塩対応だ。だけど、そんなところも憎めない。可愛い妹に、最後に最高の演奏を聴かせてやろう。律はそう意気込んで、より一層練習に力を入れ始めた。
小学校の体育館での、卒業コンサート。照明の下、律がたったひとりで吹いた最後のソロは――律の人生で、一番の演奏だった。苦しいほどの高音。胸を貫くような響き。客席のざわめきも、拍手も、全部が耳に届かなくなるほどに――ただひたすらに、自分の音に向き合った数分間だった。
そしてその音は確かに、ひとりの少女の人生を、変えてしまった。
「……どうよ。お兄ちゃん、かっこよかっただろ?」
コンサートが終わって家族のもとへ戻った律は、いつもの調子で得意げに胸を張った。息は少し上がっていたけれど、顔は笑っていた。それを見上げる奏の目が少し潤んでいて、頬が赤い。
もしかして、お兄ちゃんの演奏に感動しちゃったのかなー? 律がちょっと浮かれてニヤけかけた、その瞬間――奏が呟く。
「……兄貴には、絶対負けないから」
低く、刺すような声だった。目は逸らしたまま、唇を強く噛んでいる。悔しさと嫉妬と憧れが、ごちゃまぜになったような顔だった。
そして、奏は踵を返して――そのまま走り去っていく。
「お、おい……奏!」
律が呼び止める前に、両親が慌てて追いかけて行った。取り残された律は、ひとりぽつんとその場に立ち尽くした。背中に汗が張りつく。掌に、さっきまで握っていた楽器の感触が残っていた。
「……ったく。やっぱアイツ、負けず嫌いだなあ……」
ひとり頭を掻いて、笑ってみせる。でも、胸の奥が妙に空っぽだった。
あのトランペットは、もう俺のものじゃないんだな。これから先、あの音を鳴らすのは――奏だった。
それから奏は、律の背中を追うように音楽クラブに入った。風の噂では――「信じられないくらい上達してる」と、よく耳にした。最初から同級生たちよりも一歩も二歩も先を行っていたのは、もちろん律の指導があったからだ。けれど、今の奏は――もう律の手の届かないところに行き始めていた。ただその速度が、どこか異常だった。
「奏、お前さあ……練習ばっかしてないで、もう少し友達と遊んだりしたらどうだ? そんなにピリピリしてると、他の子もやりにくいだろ」
ある日、家で練習する奏に声をかけたときだった。トランペットを構えるその肩越しに、睨むような視線が返ってきた。
「うっさい。……ギターに浮気した人に、言われたくないから。邪魔」
冷たく、吐き捨てるような声だった。それに律は一瞬、何も言えなくなる。「お兄ちゃーん」と呼びかける、あの頃の奏の無邪気さは、もうどこにもなかった。目つきは鋭く、言葉には棘があり、空気までもが張り詰めている。律が黙り込むと奏は何事もなかったように唇を結び、また音に向き合い始めた。
譜面台の前に立つ背中は、小さな少女のものなのに――どこまでも遠くて、鉄みたいに硬かった。
――いつの間に、こんな顔をするようになっちゃったんだろうな。
トランペットは、もはや奏の生活だった。いや、それ以上に――奏の存在そのものだった。これさえあれば、他はいらない――そう叫んでいるような、誰も寄せつけない背中だった。
でもさ、奏。そうは言ってもよ。お前がやっている吹奏楽は、ひとりでは成り立たない。大事なのは、まわりの音を聴くこと。自分を押し出すことよりも、溶け合うこと。
だけど、奏は――周囲の音なんて、最初から聞いていなかった。譜面を睨みつける目。楽器を構える手。そのどれもが、自分の音しか求めていなかった。
合わせる気なんてない。あれは戦っている。誰かとじゃない、自分と――そしてきっと、大嫌いな律と。
なのに――なのに、どうして。あんなに音が綺麗なんだ。誰のための音でもない。感謝でも、優しさでもない。ただただ真っ直ぐで、強くて、遠くまで飛んでいく。勝ちたくて仕方ないという気持ちだけが、その音を押し出していた。
小学校の音楽クラブでは、「松波律先輩の妹」という肩書きが、それなりに効いていた。本人の協調性のなさも、周囲の優しさが上手く包み込んでくれていた。
だけど、それは決して奏自身の人望じゃなかった。奏が奏として受け入れられたわけでは、きっとない。
それでも奏は三年間、誰よりも吹き続けて、誰よりもトランペットに執着して――ついに、クラブ内で誰にも敵わない存在になった。
卒業コンサートのステージで披露された奏のソロを――律は、客席から聴いていた。その音は、すさまじく上手かった。正直、自分が小六のときよりも、ずっとずっと上手かった。だけど。
――なんで、あんなに苦しそうなんだ。
音が強すぎた。速すぎた。空間をねじ伏せるような迫力が、胸に突き刺さった。美しかった。完璧だった。なのに、痛かった。息を吸う音が、客席まで刺さってきた。それだけで胸が痛かった。
あれはきっと、演奏じゃない。もはや、祈りになり損ねた音だった。トランペットで、自分を縛りつけている。吹かずには、前に進めない。止まったら、崩れてしまう。だから奏は、あんな音を出していた。
奏。お前はそんなに必死になって、何を証明したいんだよ。
律には、もうわからなかった。でも、ただひとつ――その孤独な音に、心がざわついた。




