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第十一話 音の始まり(2)

 奏が初めてトランペットから音を引き出せたのは、それからしばらく経った頃だった。でも、その時にはもう、“音を出す”ことが目的ではなくなっていたのかもしれない。奏は、何かに勝つために吹いていた。「もっと練習させて」「まだ返さない」――そう言っては、律の手から楽器を奪い取り、まるで戦うように音を鳴らした。息切れも、唇の痛みもどうでも良いというように――まるで何かに取り憑かれたみたいに、夢中で吹き続けていた。律の指導が良かったのか、奏に元々才能があったのかは分からない。けれど――音を出せるようになってから、奏の成長は目まぐるしかった。このまま放っておいたら抜かれるんじゃないかなんて危機感を覚えつつ、律は奏にトランペットを教え続けた。


 あっという間に季節は巡り、奏はいつの間にか律を「お兄ちゃん」ではなくて「兄貴」と呼ぶようになっていて、どこか勝気で生意気な少女になっていた。凛としたショートカット姿は、身内の律から見ても格好よく映っていた。そんな奏の成長を寂しく思いつつ、律も小学六年生になり、この春からは中学生だ。


 律は最近ハマったバンド漫画に夢中で、中学では吹奏楽部に入らず、一人でギターをやると心に決めている。トランペットはもう卒業だ。入れ替わりに奏が音楽クラブに入るみたいだし、名残惜しいけどちょうどいいかと思っていた。


「奏。今度の日曜に、音楽クラブの卒業コンサートがあるから。お兄ちゃん、誰よりもかっこいいソロを演奏するから、来るよな?」


「……は? 何言ってんの? まあ……行ってあげてもいいけど」


  奏は呆れたような目で律を眺め、「で、何時からなの」と言葉を繋げる。何だかんだ、素直じゃないところも可愛いよなあ。可愛い妹に、最後に最高の演奏を聴かせてやろう。律はそう意気込んで、より一層練習に力を入れ始めた。


音楽クラブの卒業コンサートは、奏の人生を変えた。体育館の舞台で律が最後の力を振り絞ったソロは、嫌になるほど力強く、華やかで、眩しかった。


「……どうよ、お兄ちゃん、かっこよかっただろ?」


 コンサート後、家族の元にやって来た律が得意げな顔をして奏を見た。奏は目を潤ませて、頬が赤く染まっている。お兄ちゃんの演奏に感動しちゃったのかなー? といい気になっていると、すごい勢いで睨みつけられた。


「……兄貴には、絶対負けないから」


 奏は目を伏せて、低く、悔しそうに呟いた。その言葉が、律の心臓に突き刺さる。奏はそれだけ言い残し、背中を向けてそそくさと歩き出していく。そんな奏を、両親が慌てて追って行った。取り残された律は一人頭を掻いて、その小さな背中を眺めていた。


 その後、奏は律の後を追って音楽クラブに入部した。風の噂によると、奏はほかの部員をよそに、一人飛ぶ鳥落とす勢いで上達しているようだった。元々律の指導もあり、奏は同級生よりも一歩先に進んでいた。だけど……。


「奏、お前さあ……練習ばっかしてないで、もう少し友達と遊んだりしたらどうだ? そんなにピリピリしてると、ほかの子もやりにくいだろ」


「うっさい。……ギターに浮気した人に、言われたくないから。邪魔」


 家の中で練習をしていた奏に話しかけると、じろりと睨まれた。近頃の奏はなぜかは分からないけれど、張り詰めた空気を纏っている。律が言葉を失っていると、奏は唇を固く結んだまま、またトランペットを構えた。譜面台の前に立つその背中は、まるで誰にも触れさせない鋼鉄みたいだった。いつの間にか、トランペットが奏の生活の中心になっていた。その姿はまるで、もう私にはこれしか無いと、訴えているようだった。


 奏、そうは言ってもよ……。吹奏楽は、集団音楽だ。各々が自分のやりたいように演奏をしてしまえば、音楽は破綻する。大切なのは、協調性と、周りの音を聴きながら自分の音を合わせていく、柔軟性。奏には、そのどちらも欠けていた。自分のことしか見えていない。奏は、自分の音しか聴いていなかった。誰かと合わせようなんて気は、最初からなかったのかもしれない。それでも奏の音は、なんであんなに綺麗なんだろう。誰のためにでもなく、ただ吹き続けて、誰よりも遠くに届きそうなくらいに――だから俺は、お前のことが、分からない。ただ、何かに取り付かれたように音を出す。目立つように、誰よりも強く――誰かに勝ちたくて仕方ないみたいに。


 小学校の音楽クラブでは、“あの松波律先輩の妹”ということもあり、協調性のない奏でもなんとか上手くやれていたようだった。それは、奏個人の力というよりも、律の影響と周りの優しさによるものだろうけれど。実力主義の音楽クラブでは、演奏さえ上手ければ、多少性格に難があっても口出しをしてくる者はいなかった。奏は三年間で部内の誰よりも上手くなり、音楽クラブを卒業した。卒業コンサートで披露された奏のソロは、あの頃の律よりも段違いに上手かった。だけど、律には――あの演奏が、どこか苦しそうに聴こえた。強すぎる、速すぎる、張り詰めすぎている。まるでトランペットで自分自身を縛りつけるように、吹かずにはいられないように――まるで、呪いみたいだった。お前、そんなに必死になって……何を証明しようとしてるんだよ。


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