第十一話 音の始まり(1)
放課後、松波奏は新品のランドセルを床に放り投げたまま、ソファに沈み込んでゲームに熱中していた。大型テレビに接続したコントローラーをカチャカチャと忙しなく操作する度、画面のキャラクターが叫び声を上げながら必殺技を繰り出している。A、B、長押し、A――奏のキャラクターがNPCをぶっ飛ばした瞬間、玄関の扉ががちゃりと鳴る音がした。あ、帰ってきた。奏はポーズボタンを押して、リビングの扉に向かって声をかける。
「お兄ちゃーん、お帰り! ねえ、ゲームやろー!」
「えー、またかよ……。ていうか、奏。ランドセルくらい片付けろよな……」
開いた扉からは奏の兄、律がランドセルを背負ったまま顔を覗かせて、じっとりとした目で奏を見ていた。奏はそんな兄なんてお構いなしに、もう一つのコントローラーを手に取った。
「だってさあ、お兄ちゃんをボコボコにするの、超楽しいし!」
「うっわあ……ひでえ妹……」
奏が歯を見せて無邪気に笑うと、律は一つ溜息を吐く。この妹は、俺が手加減してあげていることを知らないんだろうな……なんて思いながら、律はランドセルと持って帰ってきた荷物をソファに置いた。
「ねーえー、お兄ちゃーん。やろうよー。って、なにその荷物」
両手にコントローラーを持ったままの奏が、律の荷物に吸い寄せられる。ソファには見慣れない、四角張った黒いケースが置いてあった。どこか古びていて、学校の備品であることを示すシールが貼ってある。
「ああ、これ? お兄ちゃん学校で音楽クラブに入ったって言ったろ。先生が楽器持って帰って良いっていうから、持って帰ってきた」
「ふうん、楽器……?」
奏は珍しいものを見るように、ケースをじっと見つめている。見せびらかしてやろうと思い、律はケースの金具を外した。その瞬間――まばゆい金色が、奏の視界いっぱいに広がった。トランペットだった。古びているくせに、妙に存在感がある。窓からの光を反射して、奏の目には宝石でも見つけたみたいに映ったんだろう。ぽかんと口を開けたまま、動けずにいる。律はそんな妹の姿から、目が離せなかった。心臓が一度、強く跳ねた気がした。それが何なのかはわからなかったけれど――ただ、胸がぎゅっと締めつけられるような、不思議な感覚が残っていた。
「何これ……ラッパ?」
「トランペットだよ。吹くとめっちゃ音が出る。超目立つし、かっこいいんだぜ」
律は楽しげに言いながら、丁寧にその楽器を持ち上げた。金属が揺れ、光がきらめく。銀色のマウスピースを楽器に付け、息を吸い込む。大きく息を吹き込んだら、爆音がリビングに響き渡った。
「うわっ! 何? ちょっとお兄ちゃん、うるさい!」
突然部屋じゅうに響いた音は、爆発みたいだった。奏の身体がびくりと震え、耳の奥にまで響くような金属音が、頭の芯まで突き抜ける。驚きと同時に、何かが心の中に焼きついた。鼓動が速くなる。息が浅くなる。律はそんな奏をちらりと見て、最近覚えた有名なアニメソングのフレーズを吹き始めた。家の中を、音がこだまする。息が音に変わる瞬間が、奏の目の前で見える。手元の楽器が、命を持ったように震えている。律の奏でる音が、風みたいに奏の肌をかすめていった。怖いのに、綺麗で――心の奥が、じんわりと熱くなる。
「……どうよ、かっこいいだろ?」
演奏を終えて、律がマウスピースから口を外す。したり顔で奏を見ると、いきなりその手が伸びてきた。
「……ねえ、奏も! 奏もやる!」
奏がコントローラーをポイッと投げて、律が持っていたトランペットに手を伸ばす。律があわてて抱え込むよりも早く、小さな手がトランペットを奪い取って走り去る。
「これ、どうやってやるの。……こう?」
部屋の隅に逃げた奏は見よう見まねでぎこちなく構え、楽器に息をフーッと入れる。スーッと抜ける音に「ん?」と首を傾げ、もう一回大きく頬を膨らまして息を入れた。だけど鳴ったのは、管の中を空気が通る音だけだった。
「……ねえ、これ、全然鳴らないじゃん! なんで! お兄ちゃん!」
奏は機嫌の悪そうな声をあげ、上目遣いで律を見る。その瞳には涙が溜まっていて、今にも泣きだしてしまいそうだ。あーあ、これは。手が付けられなくなる前に、早く何とかしないと……。律は苦笑しつつ、トランペットを抱いた奏に近づいていく。
「お兄ちゃんのくせに、かっこいいとか、だめだから! 奏、絶対、お兄ちゃんに勝つから!」
「はいはい。じゃあかっこいいお兄ちゃんが、吹き方を教えてあげましょうねー」
律がおどけて言うと、奏は赤い目で睨んでくる。拗ねたように顔を背けながらも、奏の腕の中には、しっかりとあの金色の楽器が抱かれていた。まったく、奏って本当負けず嫌いだよなあ、誰に似たんだか。まあ、そんなところも可愛いけどな。泣きそうな顔でトランペットをぎゅっと握りしめた奏を眺めつつ、律はその小刻みに震える頭に手を置いた。