第十話 潮風の距離(4)
「でさ、その子が……私の演奏聞いたら、まるで別人みたいに……泣きそうな顔だったけど、目をキラキラさせながら出てきてくれて。嬉しかったんだ」
寝ころんだカナデが砂を握って、目を細める。砂は手の隙間から、はらはらと星の粒子みたいに零れ落ちていった。
「ずっと一人で吹いてたし、一人でいいと思ってたから。自分の演奏で、誰かがこんな風に喜んでくれるって、知らなかった。その時に、つまんなそうな顔してたミナのことを……もっと笑顔にしたいって思ったんだよ。ちょっと強引だったかもしれないけどね」
言葉を失い、頬がじんわりと熱を持つ。わたしの髪を、潮風が優しく撫でていた。つい、カナデに手を伸ばしそうになった。手を伸ばして、その身体に触れて、抱きしめたい。そう思ってしまった自分に、自分で驚いてしまう。
「それまではさ、人付き合いとか……上手くいかないし、めんどくさいし、正直苦手だったんだけど。ミナと会って……人と関わるのも悪くないかもって思ったよ。ミナのおかげだ」
「も……もういい、やめて……」
寝ころぶカナデが、少しはにかみながらわたしを見る。すっかり照れてしまったわたしは、顔を隠しながら俯いた。カナデの言葉が心臓に突き刺さって、どろどろと熱い血を流す。もうこれ以上、言葉を紡がないで。これ以上言われてしまったら、自分が何をしでかすか分からなくて……怖い。わたし、カナデからそんな風に思われていたなんて。わたし、カナデの特別になりたい――。血液は全身を駆け巡り、芯から熱が発火する。喉の奥まで出かかった言葉を、必死で飲み込んだ。
……好きだ。わたし、カナデのことが好き。
夕焼けの海みたいに胸が焼けて、波音の中に気持ちが溶けていく。ずっと曖昧にしてきた想いが、今、はっきりと形を持った。言葉にした瞬間、心の奥で何かが決壊した気がした。もう誤魔化せない。この気持ち、きっとそうだ。でも、カナデは女の子だし……伝えたらきっと、カナデは困ってしまうだろう。それに、こんなに大切にしてくれているのに……これ以上、わたしは何を望むの?
「ミナと出会ってから、毎日楽しいよ。ありがとね。これからも、一緒にいてくれると嬉しいな」
カナデは身体を起こし、そのまま立ち上がった。わたしに背中を見せながら砂を払い、「何言ってんだろうね」と照れたように笑っていた。
心臓の鼓動が、波の音より大きく響く。すっかり暗い色に染まってしまった水平線を見つめながら、「わたしも」と呟いた。振り向いたカナデの優しい視線が、真っ直ぐにわたしに降り注ぐ。
「わたしも、カナデに出会ってから……すごく、楽しい。わたしの世界を変えてくれて、ありがとう……。わたしこそ、これからも……一緒にいさせて……」
一番星が瞬く夜空を背に、カナデが手を伸ばしてきた。迷いのない、しっかりした掌。指先で掌に触れ、わたしはぎゅっと握り返す。カナデは手元に力を入れて、わたしの身体を引っ張り上げた。その瞬間、涼しい潮風が頬を撫でて、寄せる波の音がわたしの気持ちをそっと隠す。
……好きだよ、カナデ。
その言葉は、温かくて切なかった。カナデの体温を感じて、指先に力を込める。気付いたカナデが、掌を包み返してきた。震える指先と、言えなかった『好き』が、夜の波音にそっと包まれていく。……いつか、伝えられる日が来るのかな。
だけど、今はまだ――このままでいい。