第十話 潮風の距離(3)
「……突然どうしたの?」
カナデの黒い髪が、潮風に揺れている。切れ長の瞳は夜を告げる藍色に染まり、穏やかにわたしを見据えていた。
「カナデって……人とあんまり仲良くしないでしょ? なのに、わたしに楽器教えてくれるの、どうしてかなって……気になってたの」
波音なんか聞こえないほど、心臓の音が胸を打ち続けていた。体育座りのように抱えていた脚に、身体を押し付ける。足先が砂浜に食い込み、穴を作った。
『奏の自己満足に、美奈ちゃんが無理に付き合う必要はない――』
『あの奏が弟子を取るなんて――』
『奏のこと、どうかよろしくね。美奈ちゃんとなら、奏もきっと大丈夫だよ――』
わたしの知らないカナデを知っている人の言葉が、頭の中に蘇る。そんなカナデが、どうしてわたしと一緒にいてくれるんだろう。答えを知ってしまったら、わたしはもう戻れない。だけど――わたしは、知りたかった。息を吸い込む音がする。目を伏せながらその表情を確認すると、カナデは困ったような顔をして笑っていた。
「……そうだなあ。言っても怒らない?」
カナデが歯を見せて、悪戯っぽい笑顔を見せた。予想外の言葉に、心臓がどきりと一度だけ跳ねる。わたしが怒るようなことが理由って、いったいどういうことなんだろう。
「怒るようなことが理由なの……? 大丈夫、怒んないよ」
「もう既に、ちょっとむくれてるじゃん」
つい口をとがらせていたようで、わたしははっとする。カナデは声をあげて笑い出し、そのまま両脚を砂浜に投げ出して寝ころんだ。黒い髪が砂に広がって、波の音が遠くに響いた。砂浜で寝るとか、自由過ぎ。ちょっと呆れて空を仰ぎ見ると、藍色の中に輝く星が一つ浮かんでいた。
「……ミナと初めて会った日さ、バス一緒だったじゃん? あの時、もうミナに気づいてたよ。なんか、顔がすごい死んでる子がいるな~って思ってさ」
「えっ。……ええ! わたし、顔死んでたの?」
その言葉で、慌てて頬に手を当てる。わたし、そんなに表情筋死んでるのかな……。摘まんでみるけれど、分からない。ぱっとしない顔だなあとは、自分でも思っているけれど。初対面の子にそんなことを思われるなんて、相当じゃない? 言葉を失っていると、カナデは言葉を続けていく。
「うーん……。死んでるっていうか、元気がないっていうか……人生つまらなそうな感じ? 溜息も吐いてたし……。まあ、そんな子がいるな~と思ってたんだよね」
「うわあ……」
当時の自分を思い出して、顔が熱くなる。カナデに聞こえるほどの大きな溜息を吐いていたなんて、全然気づかなかった。完全に無意識だ。しかもあの日、カナデはヘッドホンをしていなかったっけ。頬の肉を摘まみながら、気をつけなきゃと心の中で決心する。
「まあ、その時はそれで終わってたんだけど。バスから降りたら、その子がこそこそと後ろを付いてくるものだから、驚いて。本人は隠れてるつもりだったのかもしれないけど、全然隠れてなかったからね。それで、変な子だなって思って」
カナデは夜空を仰ぎながら、楽しそうに口角を上げる。なんだかすごく恥ずかしくて、正直もう思い出すのをやめてほしかった。あの日のわたしは、確かにどうかしていたと思う。知らない女の子の背中を付けていくだなんて……一歩間違えればストーカーだ。でも、そのおかげで、今わたしはカナデの横にいる。わたしを通報しなかったカナデに……感謝しないと。