第十話 潮風の距離(2)
「……ねえミナ、本当にもう大丈夫? 急に倒れるからびっくりしたよ」
まだ心配そうな顔をしたカナデが、わたしの額に手を伸ばす。じんわりと掌の体温が伝わってきて、また身体が熱くなってしまいそうだった。大丈夫と苦笑し、その手を優しく振り解く。駅から十分くらいしか走っていないはずなのに、こんなにバテてしまうだなんて。なんだか恥ずかしくて、自分の運動神経の悪さを少しだけ呪った。
座り込んだままのわたしの横に、カナデが座る。眼前には、夕焼けに染まった東京湾が広がっていた。水平線の向こう側に、少しずつ太陽が沈んでいく。
「それにしても……汐見さんから、ミナが会いたがってるって聞いたけど。急にどうしたの? 明々後日会うのに、待ちきれなかった?」
橙色に染まったカナデが、わたしを覗き込んで茶化すように笑った。カナデの言う通り、明々後日にはカナデと楽器の練習をする予定がある。あと三日、待てば会えたのに。若葉が勝手に連絡したの――とは、言えなかった。
「……そうなの。カナデに会うの、待ちきれなくて」
今が、夕方で良かったと思った。たぶん、わたしの顔、真っ赤だろうから。息が上がって脳みそが熱にやられたのか、思考が上手くまとまらない。体育座りのように立てた膝に、自分の顔を押し付ける。恥ずかしくて、カナデの顔を見ることができない。
「えっ……そっか」
呟いた声が、波の音に溶けていく。二人の間に、沈黙がおりた。居た堪れずカナデの表情を盗み見ると、珍しく照れたような顔をして、頬を掻いていた。
「 ……そんなこと言ってくれるの、ミナだけだよ」
カナデは波打ち際を見つめたまま、どこか照れくさそうに……優しく笑った。わたしだけ、か。――ねえ、カナデ。わたし、たぶん……カナデのことが好き。でも、好きって何だろうね。カナデにとって、ほのかちゃんって? あんまり仲良くし過ぎないで。わたし、カナデの特別でいたい。カナデにとっての、一番でありたいの。そんなこと、口に出せるわけがない。
「……そういえば、楽器持ってるじゃん。練習してたの?」
沈黙の中、カナデが首を振って話題を切り替えた。カナデの視線は、砂浜に置かれたわたしの楽器ケースに移っている。いつも通りのその様子に少しだけ安心して、わたしは顔を上げた。
「うん……午前中、自主練してて」
言葉を受けたカナデが、穏やかな顔をしてわたしを見つめていた。どこまでも優しい瞳が静かにわたしを見据えていて、息が止まるようだった。何も言えずに固まっていると、カナデの片手が伸びてくる。戸惑っていると、カナデの指先がわたしの頭にそっと触れた。
「えっ。……カナデ?」
「ミナは偉いね。そんなに頑張ってくれるなんて……ありがとう……」
小さな声で呟いて、カナデはわたしの頭を撫で続ける。掌が何度もわたしの髪の毛に触れて、それがなんだかこそばゆくて――どこか温かい。誰かに頭を撫でられたのなんて、いつぶりだろう。高鳴る心臓を抑えつけながら、わたしは瞼を下ろして素直に身を委ねていた。
心地良い。こんな関係が、ずっと続いていけば良い。わたしの気持ちを伝えたら、カナデはどう思うんだろう? 重い女だなって思われちゃうかな、それとも……ちょっと距離を置かれちゃうのかな。カナデに嫌われるくらいなら、今のまま――この関係のままで、十分なんじゃないのかな。そもそも、わたしが望む“特別”って何? わたしは、カナデとどうなりたいの?
「……ねえ、カナデ」
瞼を開けて、名前を呼ぶ。優しい笑顔が向けられて、安心する。その顔が、やっぱり好きだなあ、なんて思う。
「カナデは、どうして……わたしに楽器を教えようと思ったの?」
言葉を受けたカナデが、片手を下ろしてわたしにそっと向き直る。答えを待つ間、夕陽に染まる波がきらきらと光っていて、少しだけ胸がざわついた。