↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
50/240

第十話 潮風の距離(1)

 海辺の駅で電車を降りた途端に潮の香りが押し寄せて、呼吸が一瞬止まりかけた。夕暮れの風は湿っていて、一日が終わっていく気配を運んでくる。でも、それどころじゃなかった。


――会いたい。カナデに、今すぐ、会いたい。


 そう思った次の瞬間、わたしの脚は、もう走り出していた。理屈じゃない。わからないけれど、とにかく、間に合わなきゃいけない。走らなきゃ――このままじゃ、わたしの心が壊れてしまう。


 どうしてこんなに、苦しくなるんだろう。会えない時間が長くなるたびに、胸が落ち着かない。会いたい。触れたい。カナデの声を聞きたい。笑ってほしい。ただそれだけのはずなのに、心はこんなにもざわついて、呼吸まで乱れる。寂しいだけじゃない。不安なだけでもない。わたしは――カナデに置いていかれるのが、怖かった。


 暑さが肌にまとわりついて、呼吸が焼ける。喉が痛い。脇腹が疼く。目の芯が熱い。汗が滲む。心臓は、身体の奥で鐘みたいに鳴っていた。


 それでも、止まれなかった。


 駅から続く一本道でスカートが脚に絡み、楽器ケースが何度も身体を叩く。痛いはずなのに、どこか遠かった。まるで夢の中を走っているみたいに、音だけが遅れて聞こえる。息も、鼓動も、全部が現実から半歩ずれていた。ぐらぐらと視界が揺れて、涙とも汗ともわからない雫が頬を伝っていく。


『美奈ちゃん――奏のことが、大好きなんだね』


 ほのかの言葉が、脳裏で何度もこだましている。確かめるように、刺すように。


 そうだよ。わたしは、カナデが好き。そんなの、当たり前のことだと思っていた。だって、友達なんだから。他の友達と同じ……そう思っていた。そう言い聞かせてきた。ここまで走ってきた理由さえ、そういうことにしておきたかった。


 だけど――違う。ただの「好き」じゃ、足りない。他の子とは違う。若葉にも日菜子にも、ほのかにも湧かない気持ちが、カナデにだけある。


 わたしだけを見てほしい。名前を呼ぶその声も、わたしにだけ向けられてほしい。他の子と笑っていると、見たくなくなる。他の誰かを、褒めないでほしい。わたしだけの、あなたでいて――こんな感情、今まで誰にも抱いたことなんてなかったのに。


 走って、走って、視界が滲んだ。夕暮れが赤くぼやけ、世界が水の底みたいに揺れる。声も、波の音も、すべてが遠い。自分の呼吸だけが耳の奥で膨らんで、やけにうるさい。わたしは走っているのに、足元だけがふわふわして――地面にちゃんと触れていない気がした。


 そして、公園の入り口が見えた。夢と現実の境目で、木が生い茂る歩道を抜けて、ぽつんとそびえるタワーの入り口を通り過ぎる。その先の砂浜に、カナデが立っていた。夕陽に染まったその横顔は、まるで海に浮かぶ一番星みたいで。トランペットを片手に潮風の中に立っているその姿が、無性に胸を締め付けた。


――カナデだ。


 姿を目にした瞬間に何かがぷつんと切れて、喉の奥に溜めていた想いが込み上げる。名前を呼ぼうとしたそのとき、カナデが振り返って――世界が、音を失った。視線がぶつかる。その途端、心臓が大きく跳ね上がった。カナデの目が、わたしの目を射抜く。いつもわたしに向けてくれる、優しい目。それなのに、なぜだろう。触れられてもいないのに、全身が熱くなっていく。見つめられるとこんなにも嬉しくて、苦しくて、怖い。わたしは今にも、泣きそうだった。ああ、わたしは、やっぱり――。


「カナデ……! 突然……ごめんね……待った……?」


 声が震えるのは、息切れのせいだけじゃなかった。胸の奥に押し込めていたものが、壊れて溢れて――言葉にしないと、間に合わない気がした。焦って一歩踏み出した瞬間、足裏が砂に沈む。踏ん張ろうとしても、足首が言うことをきかない。世界がぐらりと傾いて、視界の端が白く欠けた。


 あっ、倒れる――と思ったときには、カナデがもう目の前にいた。次の瞬間、身体がふわりと宙に浮いて、腕にまわされた力で引き戻される。潮風より先に、カナデの体温が胸にぶつかった。硬いはずの息が、そこでやっと吐けた。


「……ミナ! どうしたの、大丈夫?」


 すぐ近くの声が、耳の奥で反響する。香りが近い。熱が近い。息がうまく吸えなくて、喉がひゅっと鳴った。全身が脈打っているのに、頭の中だけがぼんやりとして、意識が浮く。


「だ……大丈夫……ごめん……。ちょっと……走りすぎちゃった、みたい……」


 返事にしたつもりなのに、声が途切れて、言葉が砂の上に崩れるみたいに零れた。膝が抜けて、わたしは座り込む。カナデの腕がなかったら、そのまま横に倒れていた。


「ミナ、すごい汗だよ……。息、上がってるし……。とりあえず、これ飲んで」


 わたしの身体を支えつつ、カナデは自分の鞄からペットボトルを取り出した。蓋を開けて差し出されて、内側には水滴が残っている。それがやけに生々しく見えて――受け取るのに、変に時間がかかった。


 女同士。友達。飲みかけなんて、気にしない。だって、楽器のマウスピースだって借りた。なのに、こんなにも意識してしまう。カナデが口をつけていた場所が目の前にあるだけで、心臓が跳ねる。口をつける直前、カナデの口元が頭をよぎって、身体の奥がひどく締め付けられた。


 こんなはずじゃなかった。ただ水を飲むだけなのに。カナデは友達。こんなことで、動揺するなんて――。


 震える身体を誤魔化すように、ゆっくりと水を飲む。喉を潤すはずの水が胸の奥にまで染み込んでいくようで、じんわりと熱が戻ってきた。わたしの中で何かがまた、静かに崩れていく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。