第一話 金色の色と灰色のわたし(5)
「……だからさ、ミナもやってみなよ。今はできなくても、続けたら絶対できるから」
俯くと、カナデがわたしの手に自分の手を添えてくる。その掌は温かくて、優しかった。逃げたくなるくらいの真っ直ぐな眼差しに、胸の奥がざわつく。
そんな期待は、わたしには大きすぎる。それでも――わたしは震える手でマウスピースを構え、音が鳴った瞬間を思い出す。力を抜いて、振動を意識して、音のイメージを……。
管の中に息を吐き出し、空気が震えた。
「……できた?」
「できてるよ、すごいじゃん! やっぱりミナ、センスあるね。じゃあ次は、それを楽器の本体に付けてみて。持ち方はこんな感じで……」
「ええ……もう本当に無理……」
抗議も聞かず、カナデはわたしの手を軽く持って、慣れた手つきでトランペットの定位置にセットしていく。「吹き方はさっきと同じだからさ」と軽く言いながら手を離すと、ずしりとした金色の楽器の重みが、わたしの腕にのしかかってきた。戸惑いながらも眼前に持っていき、マウスピースに口を付ける。息を入れると、何も音は鳴らなかった。
「……やだ、やっぱりダメだって。無理」
「さっきできたから、大丈夫。吹けるよ」
「そんな……」
カナデの声が、優しく響く。その言葉を信じたいのに、胸の奥にこびりついた思考が邪魔をする。
でももし、もしもこの楽器を鳴らせたら――わたしの世界は、変わるのかな。少しだけでも、カナデみたいに輝けたら。わたしの灰色の景色にも、金色が差し込むのかな。
祈るように、マウスピースに口を付けた。音は、鳴らなかった。
分かっていたはずなのに。期待しちゃ、ダメだったのに。カナデとわたしは住む世界が違うって、知っていたのに――心のどこかで、わたしも変われるかもしれないって、思っていた。そんな自分を、また嫌いになりそうだったその時。
「力抜いて。……ミナならできるよ」
肩に触れたカナデの手が、そっと力を抜かせてくれた。まるで魔法みたいに、言葉が身体に沁みていく。
ミナならできる――なんて。わたしには何もないのに。だけど……何もないわたしを見て、できると言ってくれる人がいる。
それだけで世界の色が、少し変わった気がした。
わたしだって、変わりたい。このままじゃ、きっと嫌なんだ。もう、何もないふりをして笑うのは――ちょっとだけ、疲れた。だから、わたしは――。
静かに息を吸って、金色の管に、もう一度想いを込めた。
音が鳴った。
不格好で、拙くて、それでも真っ直ぐな音が、くすんだ東京湾に飛び込んだ。途端に身体は電流が通ったようにびりびりと震え、視界が明るく揺れている。海の中に飛び込んだ音が、遅れて返ってくる。潮の匂いまで、少し明るくなった気がした。もしかして、わたし……鳴らせたの?
「……できた! やっぱりできるじゃん!」
隣を見ると、カナデが嬉しそうに笑っていた。わたしは呆然としたまま楽器を下ろし、ただカナデを見つめていた。
「だから言ったでしょ、ミナならできるって。ミナさえ良ければさ、一緒に楽器やってみない? 吹き方とかは、私が教えるからさ。……ミナが一緒にやってくれたら、私も嬉しいよ」
「えっ……ええ……?」
俯いて、手に持ったままのトランペットに視線を落とした。金色の楽器に、冴えないわたしの顔が映り込んでいる。やってみたら、わたしもカナデみたいになれるのかな。ここで変われなきゃ、わたしは一生このままなのかな?
「大丈夫、ミナならできるよ」
もう一度言われたその言葉に、胸がじんわりと熱を帯びた。その目が、わたしを真っ直ぐ見つめている。わたしの灰色の世界に、金色のしみがじわりと広がっていく。
――期待しても、いいのかな。そう思ってしまった自分に、驚いている。でももう、わたしはきっと後戻りできない。気づかないうちに、わたしは小さく頷いていた。
手に持ったトランペットの重さが、少しだけ、心地よく感じられた。わたしは潮風の中でその音をもう一度思い出しながら、瞼を閉じる。
目を開けると、カナデが微笑んでいた。それはただ、明るいだけじゃない。その視線は――灰色の世界に差し込む、優しい光みたいだった。わたしは潮風の中、金色の楽器を抱きしめる。
――この音が、きっとわたしを連れていく。カナデと一緒に、奏でる場所へ。
そんな予感が、胸の中に満ちていた。




