第一話 金色の色と灰色のわたし(5)
「だからさ、ミナも、やってみなよ。今はできなくても、続けたら絶対できるから」
そう言って、カナデはわたしの手に添えた自分の手にぐっと力を込めた。期待の眼差しを向けられて、わたしは音が鳴った瞬間を思い出す。力を抜いて、振動を意識して、音のイメージを……。
管の中に息を吐き出し、空気が震えた。
「できた」
「すごいじゃん! やっぱりミナ、センスあるよ。じゃあ次は、それを楽器の本体に付けてみて。持ち方はこんな感じで……」
「ええ……もう本当に無理……」
カナデは勝手にわたしの両手を定位置にセットさせ、吹き方はさっきと同じだからさ、と言いながら手を離す。金色の楽器の重みが、一気にわたしの心にのしかかった。戸惑いながらも眼前に持っていき、マウスピースに口を付ける。息を入れると、何も音は鳴らなかった。
「やっぱりダメだって、無理」
「さっきできたから、大丈夫。吹けるよ」
「そんな……」
祈るように、もう一度マウスピースに口を付ける。もし、もしもわたしが、この楽器を鳴らせたら。わたしの世界は変わるのかな。ちょっとでもカナデみたいに、輝くことができるのかな。
……わたしは灰色の世界から、抜け出すことができるのだろうか。
息を入れても、音は鳴らない。そう簡単に鳴らせるわけがないって、わかってたのに。わたしなんかに、できるわけない。わたしとカナデは、そもそも住む世界が違うんだ。わたしもあんなに輝きたいだなんて、なんておこがましいの。
少しでも期待していた自分を呪ったとき、肩に手が添えられた。
「力抜いて。ミナならできるよ」
あまりにも優しいその声に、心が蕩けた。本当に? カナデがわたしに期待している。その期待に応えられなくて、いいのかな。
もう一回やってみよう。だってわたしも本当は、こんな世界を抜け出したい。だから、どうか……!
音が鳴った。
くすんだ東京湾に、不恰好な音が勢い良く響いた。身体は電流が通ったようにびりびりと震え、視界が明るく揺れている。わたし、鳴らせたの?
「できた! やっぱりできるじゃん!」
隣を見ると、カナデが嬉しそうに笑っていた。できた、わたしにも、音が鳴らせた……。
「だから言ったでしょ、ミナならできるって。ミナさえ良ければさ、一緒に楽器やってみない? 吹き方とかは私が教えるからさ。ミナが一緒にやってくれたら、私も嬉しいよ」
「えっ……ええ……?」
手に持ったままのトランペットを見つめた。金色の楽器に、わたしの冴えない顔が映り込んでいる。やってみたら、わたしもカナデみたいになれるのかな。ここで変われなきゃ、わたしは一生このままなのだろうか?
「大丈夫、ミナならできるよ」
どこまでも真っ直ぐな眼差しに押され、小さく頷く。わたし、期待してもいいのかな。そう思った自分に、驚いていた。
カナデは相変わらずキラキラとしていて、やったと言いながらはしゃいでいた。手に持った金色の楽器の重みが、少しだけ軽くなったような気がするのは……気のせいだろうか。潮風に吹かれながら、わたしは初めての音を胸の奥で反芻した。
カナデがトランペットを手に持つわたしを見つめた。その視線は、まるでわたしを灰色の世界から引き上げる光のようだった。きっと、この音がわたしをどこかへ連れて行ってくれる。そんな気がした。カナデの笑顔と潮風の中で、わたしの新しい音が響き始めた。