第九話 響き合う距離(3)
若葉が待ち合わせに指定したのは、東高の文化祭の後に行ったカフェだった。偶然にも、今わたしがいる場所から、歩いてすぐの場所にある。やることもないので、ひと足先にカフェに立ち寄った。店内に入ってメニューを見て、わたしが頼んだのは――カナデが以前頼んでいた、カフェラテだった。
……別に、カナデの好みが知りたかったわけじゃない。たまたま思い出して、ちょっと気になっただけで……ほんの、偶然。
そうやって言い訳する自分が、情けないくらいにはわかっていた。どんな選択をしても、頭のどこかにはカナデがいる。この数ヶ月、ずっとそうだった。そして、たぶん――きっとこれからも、そうなんだと思う。
マグカップを両手で包み込みながら、ソファー席に沈み込む。静かに深呼吸をしても、心はまったく落ち着かない。「好き」って、こんなにもぐらぐら揺れて、心が振り回されてぐちゃぐちゃになって、それでも温かい気持ちが残るものなんだ――なんてことを思いながら、カップにそっと口をつける。
「……あっつ」
舌をやけどしそうになって、思わず身を引いた。苦味がじんわりと、口に広がる。やっぱり、こないだ飲んだモカマキアートの方が、わたしには合っている。そう思うのに――今日は迷わず、この苦さを選んでしまった。
「……美奈ちゃん! 休みなのに、急にごめんね」
マグカップのふちについた泡をぼんやりと眺めていたら、柔らかな声が降ってきた。顔を上げると、いつもと違う日菜子がそこにいた。髪を下ろし、眼鏡をかけた日菜子は――普段の整えられた姿より、どこか幼く見える。だけど、その瞳の奥に浮かぶ疲れたような影に、わたしの胸が締め付けられた。さっきまで泣いていたのが、ひと目でわかった。
そのまま日菜子は対面の椅子を引き、わたしの横の楽器ケースに目を止める。「あっ」と目を見開き、途端に申し訳なさそうな顔をした。
「ご、ごめんね……! もしかして、松波さんと予定あった……?」
「えっ? ううん。全然。今日は、別の子と一緒に午前中練習してて……。たまたま近くにいたから、ちょうどよかったよ」
「……そうだったの? 松波さんの他にも、楽器吹く子がいるんだ」
日菜子が不思議そうに目を瞬かせて、わたしを見た。確かにわたしの狭い交友関係を考えると、わたしがカナデ以外と一緒にいる印象は、ないのかもしれない。わたしは苦笑して、口を開いた。
「あの、東高の……ほのかちゃん。カナデの友達の子」
日菜子は一瞬考えるような素振りをして、ああと声を上げる。頷いて、柔らかそうな髪の毛に顔を埋めた。
「……文化祭の時の、シンデレラの子かあ」
「うん。ていうか……日菜子ちゃんこそ、大丈夫? 蒼さんと、喧嘩したって……」
わたしの問いに、日菜子はえへへと力なく笑った。でも、その笑顔はどこか泣き笑いのようで、眼鏡の奥にうっすらと残った涙が光っていた。
「喧嘩、っていうか……。私が勝手に怒って、突き放しちゃっただけで……」
言葉を探すように、日菜子はゆっくりと語り始める。
「こないだの、文化祭のときもね……。蒼ちゃんが他の子に優しくしてて、なんか、もやもやして……。蒼ちゃんには何も言えなかったけど、本当は、ずっと言いたかったの。自分の気持ち……」
「うん……」
「夏休みに入って、蒼ちゃん、部活は入ってないけど……運動神経良いから、ずっと助っ人で……いろんな部活に呼ばれてて。すごいな、応援したいなって思うの。でも、全然会えなくて。連絡も返ってこないし、予定も立てられなくて……」
日菜子の声が、どんどん小さくなっていく。ふわふわの髪が、日菜子のその顔をすっかり覆い隠していた。
「……蒼ちゃんが誰にでも優しいのは、知ってるよ。誰よりも知ってるし、私は、そんな蒼ちゃんだから好きになったの。でも、やっぱり……私だけを見て欲しいって、思っちゃう。駄目だよね。わがままだよ。そんなことを思う自分も、嫌で……」
ぽろりと落ちた涙が、わたしの中にじんと染みた。日菜子が、泣いている。自分の「好き」の形を抱えて、苦しんでいる。
わたしは咄嗟に手を伸ばし、彼女の肩に触れた。薄いブラウス越しに伝わる体温が、生々しくて、あたたかくて。胸の中が、痺れるみたいに熱を持った。
――私だけを見て欲しい。
その言葉が、わたしの中に静かに落ちていった。だってわたしも、そう思ってる。
カナデが他の人に優しくするたび、心がざらつく。わたしだけを見てほしい。わたしだけに笑ってほしい。音を、わたしだけに聴かせてほしい。
ずっと、気づかないふりをしていた。こんなこと、誰にも言ったことがない。だって、認めるのが怖かった。自分の気持ちを、言葉にするのが。
だけど、日菜子の涙を見た瞬間――わたしの中で言葉にできないまま抱えてきたものが、音を立てて崩れ落ちた。だから、今なら――。
「その気持ち……わたしも、わかるかも……」
言葉にした途端、身体がじわりと熱くなる。指先が震え、日菜子の肩を撫でる掌に汗が滲んだ。かすれた声で言いながら、わたしも泣き出しそうだった。その声に、日菜子がはっと顔を上げる。眼鏡の奥の瞳が、驚いたみたいに大きく揺れた。
「わたしも……同じなの」
喉の奥が、きゅっと縮む。言ったら終わる気がして、怖いのに――それでも、止まらなかった。
「カナデが、他の子……ほのかちゃんと仲良くするのが、嫌で……。嫉妬して、自己嫌悪して……。でも、ほのかちゃんはすごく良い子で……わたしなんかにも、とっても優しくしてくれるのに……」
日菜子のまばたきがひとつ、ゆっくりになった。言葉を挟まず、ただ、ちゃんと聞いてくれている。声が震える。みっともない。汚い。そんな自分を、日菜子に見せたくないのに。喉の奥が焼けるみたいに、痛む。言いたくなかった。言った瞬間、自分の醜さが形になってしまう気がした。
それでも――もう、止められない。
「カナデに……わたしだけ見ててほしい、特別になりたい……なんて……」
最後の方は、ほとんど吐き出すみたいだった。俯いた視界の端で、日菜子の指先がきゅっと握られるのが見えた。
「美奈ちゃん……」
呼ばれた声があまりにも優しくて、怖くて。わたしはおそるおそる、顔を上げる。日菜子は目に涙を浮かべたまま、微笑んでいた。驚いているのに、引いていない。避けてもいない。
「……美奈ちゃんもなんだね。話してくれて、うれしい。だって美奈ちゃん、普段そういう話、全然しないから……」
日菜子が片手で、ぐっと涙を拭う。目元は赤いのに、どこか少しだけ、肩の力が抜けた顔をしていた。
わたしも――こんな話を誰かにしたのは、初めてだった。今まで、話すまでもないと思っていた。それに、自分の気持ちなんて、誰かに知られたら恥ずかしくて、壊れてしまいそうで。だけど、日菜子が先に心を見せてくれたから――わたしも初めて、誰かに想いを打ち明けられた。
「美奈ちゃんも、私と同じように思ってるんだ……。ちょっと安心しちゃった」
「……わたしも。こんなに嫉妬深いのは、自分だけかと思ってたよ……」
ふたりで交わす言葉は、どれも不器用だった。泣き笑いみたいな顔になって、わたしたちはくすりと笑い合う。
同じだねと言い合える誰かがいることが、こんなに心強いなんて――少し前のわたしには、想像もつかなかった。
日菜子はきらきらしていて、可愛くて、乙女で、まるで別世界の住人みたいな存在だった。だけど、いまは。もしかしたら――わたしと、少し似ているのかもしれない。
「……おーい、おふたりさん。ねえ、いいとこ悪いけどさあー。話、聞こえちゃったわー」
間延びしたような声が横から突然飛んできて、日菜子と一緒にぱっと振り向く。すると、隣の席でスワークル片手に肘をついている若葉が、にやりと笑っていた。その姿を見て、日菜子が「ええ!」と声を上げる。わたしも思わず、若葉を見つめたまま固まった。
「わ……若葉ちゃん! いつから……!」
「割と序盤からだよ~。日菜子氏の恋愛相談かと思ったら……美奈氏までとはねえー……」
「えっ……! 日菜子ちゃんはともかく……わたしは別に、恋愛じゃないから……!」
動揺で震えるわたしに、若葉が「えー?」と露骨に疑いの目を向ける。その視線に追い詰められていくように、わたしの頬がどんどん熱を帯びていく。
だって……恋愛って、普通男女でするものだし。だけど今、わたしの目の前には――女の子の蒼と付き合っている、日菜子がいて。その日菜子が、こんなにも恋で悩んでいる。
……女の子同士の恋愛って、普通の恋愛じゃないの? ううん、そんなことない。日菜子の恋はどこまでもまっすぐで、本物で、普通じゃないなんてこと絶対にない。わたしだって、それはよく知っているはずじゃないか。
じゃあ、わたしのは? わたしの、カナデへの気持ち――これは、なんなの? 親愛? 友愛? それとも――。
答えが出ないまま、わたしは目を伏せてマグカップの中を眺めていた。泡がふわふわと浮かんだ、薄茶色の液体。カナデの味――苦くて、でもどこか優しい。そんなことを思っていると、日菜子がふいに笑い出した。
「……ふふっ」
その声につられるように若葉もくすっと笑って、気づけばわたしも、笑っていた。
なにがおかしいんだろう。でも、なんだかすごくあたたかくて。この瞬間だけは、すべてが優しく包まれている気がした。




