第九話 響き合う距離(2)
「なるほどね、そこが美奈ちゃんの課題かあ。でも、数ヶ月でこんなに吹けるなんて……すごいよ! 頑張ってきたんだね」
ほのかはにっこりと笑って、わたしの演奏の良かった点を述べ始めた。音が綺麗とか、楽器がちゃんと鳴っているとか、吹き方が丁寧とか……あまりにも褒めてくれるものだから、まるで背中に後光が見えそうだった。初心者のわたしの音を、こんなにもきらきらとした瞳で褒めてくれるなんて……。カナデもいつもわたしを褒めてくれるけれど、カナデ以外の人から褒められるのは新鮮で……身体が熱を持つようだった。続いてほのかは、わたしの課題である高音についてもアドバイスをしてくれた。ほのかが普段している練習も教えてくれて、わたしの横で一緒に音を鳴らしてくれる。どこまでも優しくて、面倒見がよくて――ほのかが慕われている理由が、よく分かった気がした。
「なんだか全体的に、焦っているような印象かも? やらなきゃって気持ちが、音に乗って伝わってくるというか……。もう少し肩の力を抜いてリラックスして吹けると、もっと良くなるんじゃないかなあ」
一通りの練習を終えて、ほのかは柔らかい笑顔でこう言った。焦り。やっぱりわたしの焦りが、空回りして演奏に反映されてしまっていて――しかも、ほのかにも見抜かれている。わたしは膝に置いていた楽器を、指先でぐっと掴んだ。肩の力を抜いてリラックス……わたしはどうすれば、楽器を吹けるようになるんだろう。カナデのことを考えなければ、力を抜くことができるのかな。だけど……楽器を構えるたび、浮かんでしまうのはあの日のカナデ。音に真っ直ぐ向き合う、あの凛とした横顔。忘れるなんて……できるわけない。
「美奈ちゃんが奏のために頑張ってる気持ちは、すごくよく伝わってくるよ。むしろ、ちょっと頑張りすぎなのかもね? 奏ったら、美奈ちゃんにそんなに真っ直ぐ思われてて……ズルいなあ」
くすりと笑い、ほのかはわたしを見た。その澄んだ瞳に心を見透かされたような気がして、一瞬心臓が縮こまる。視線が交わり、ほのかは柔らかく目を細めた。わたしを見つめながら、どこか安心したような、穏やかな表情を浮かべながら――彼女はそっと呟いた。
「美奈ちゃん、奏のことが大好きなんだね」
ほのかの銀色のトランペットが、暖色の光に照らされて鋭く光を放っていた。眩しい。けれど、その輝きから目を逸らせない。胸の奥で、何かが音を立てて生まれた気がした。
――カナデのことが、大好き。そうか、わたし、カナデが……。
「……えっ、ええ! ほ、ほのかちゃん……?」
その言葉の意味を理解した瞬間、思わず声が裏返る。頬が一気に熱を持ち、身体中が沸騰したように熱くなった。カナデへの執着や、ほのかへの嫉妬。そばにいたいと思うのも、音を似せたいと思うのも――。名前を呼ばれるたびに胸が弾むのも、全部、全部……。
好き。そう実感した途端、胸の辺りがじんわりと温かな気持ちになった。だけど……好きって、一体どういうことなんだろう。思わず楽器を胸に抱き、わたしはほのかに向き直る。そんなわたしを、ほのかは不思議そうに眺めていた。
「えっ……違うの?」
「いや、違くはないと思うけど……。好き……?」
「ふふっ、そうだよね。だって、美奈ちゃんを見ていると……本当に、奏のことが好きなんだなあって思うもん。だから、奏も……」
ほのかは唇をきゅっと閉じて、自分の楽器をしまいながら頷いていた。楽器ケースの金具をかちりと閉じ、ほのかは顔を上げてわたしを見る。
「……美奈ちゃん、奏のこと、どうかよろしくね。美奈ちゃんとなら、奏もきっと大丈夫だよ」
力強さを帯びた瞳に見つめられて、わたしは何も言えなかった。『奏のこと、どうかよろしくね』――そんなこと、わたしが言われる資格はあるのかな。わたしなんかで、本当にいいのかな。でも……わたしが一番そばにいたいと、わたしが特別でありたいと、心が叫んでいる。知らなかった。好きって、こんなに――苦しくて、やるせなくて……それでも温かくて、ほんの少しだけ誇らしい気持ちだったなんて。片手で自分の頬に触れる。頬は発熱しているのではないかと思うほど、熱くなっていた。
わたしとほのかは並んで部屋を出て、受付にいたカナデのお兄さんに伝票を渡す。
「お兄さん。奏に……私と美奈ちゃんが一緒に来たこと、言わないでくださいね。奏には秘密で、特訓中なんです。ね、美奈ちゃん! 頑張ろうね!」
ほのかは悪戯っぽく笑い、わたしの顔を覗き込む。なんだかわたしよりも、ほのかの方が乗り気になっている気がするけれど……つられて頷くと、お兄さんがその様子を微笑ましそうに眺めていた。
ほのかと昼食を共にし、部活に向かう彼女に手を振って別れる。午前中、わたしに付き合ってたくさん吹いてくれていたのに、これからまだ吹くなんて。わたしも頑張らないとと楽器ケースを持ち直すと、鞄の中でスマートフォンが振動した。
……カナデかな?
ほんのわずかな期待と共にスマートフォンを取り出し、画面を見る。予想は外れて、日菜子からメッセージが届いていた。
『蒼ちゃんと、喧嘩しちゃった』
絵文字も何もない、若葉と日菜子のトークルームに浮かんだ無機質な吹き出しをじっと見つめる。言葉を吞み込むと、一瞬だけ息が止まった。
「……えっ」
動揺して、指先がスマートフォンを落としそうになる。日菜子が、あの蒼と喧嘩? 東高の文化祭の時、様子がおかしかった日菜子のことを思い出す。もしかして、その件? 指を止めていると、画面に若葉のメッセージが表示された。
『日菜子氏、大丈夫? 話聞くよ! 緊急集合~!』
わたしも慌てて、会える旨を書いて送信する。しばらくして、若葉が待ち合わせ場所に東高の文化祭後に来たカフェを指定した。わたしが今いる場所から、すぐに行ける場所だった。